砂漠の果て、海のほとり――千種創一『砂丘律』についての試論

Die Welt ist fort, ich muß dich tragen.

Paul Celan

 

感情を残すということは、それは、とても畏れるべき行為だ、だから、この歌集が、光の下であなたに何度も読まれて、日焼けして、表紙も折れて、背表紙も割れて、砂のようにぼろぼろになって、いつの日か無になることを願う。(261頁) 

 「あとがき」にこのように書いてある、一冊の歌集について書こうと思う。

千種創一『砂丘律』のことだ。

春に以下のような形式で三刷を予告したところ、数日中のうちに増刷が決定したことは記憶に新しい。それだけ多くの人々にこの歌集が求められていたのだろう。

僕の手元にあるのは二刷のものだ。たしか、明大前にある七月堂で手に入れたのだと思う。

僕もまたこの歌集を、ここに歌われる何かを求めていたひとりである。折に触れて読み返してきた。

いまだ砂になってはいないけれど、表紙は折れてしまったし、背に貼られた寒冷紗は解けはじめている。これからも僕はこの本を読むだろう。この身が朽ち果て砂と散るのと、この本が無に帰してしまうのと、この街が砂漠に変わってしまうのと、いずれの出来事がはじめに訪れるのだろうか。

 『砂丘律』は瑞々しい情緒に溢れている。言ってしまえば、とても「エモい」。一首引いてみよう。

さよならが一つの季節であるならば、きっと/いいや、捨てる半券(223頁)

 別離が一つの季節であるならば、再会もまた季節として巡ってくるだろう。そのようにして「きっと」に期された再会が、「/」による句割れによってすぐさま断念される。「捨てられた半券」は、なんらかの記念物だろうか。希望が棄却されたあとに残るのは、諦念と微かな清々しさ、そして寂寥感である。複雑に、大きく揺れ動く感情が、ここには刻み込まれている。

この一首を見てもわかるように、また献辞に「Y・Yへ 限りない感情を」とあるように、『砂丘律』には豊かな感情が刻まれている。それこそが「エモさ」の起源でもある。そして、その中でもこの一冊に通底し、その(ハードボイルドな)色と魅力を決定づけているのは、「寂しさ」だ、と僕は思っている。

それでは、その寂しさはどのようにして生み出されているのか。『砂丘律』に通底する寂しさとはいかなるものであるのか。

僕はこの試論でこのことを問うてみようと思う。そして、「砂漠」と「海」というふたつのイメージの系を結ぶことによって、ひとつの答えを与えようとする。そのいずれの風景も、「寂しさ」を生じさせるものなのだ。

(先取りして述べると、答えを得たのちも論述は続く。「寂しさ」とともに僕たちはどのように生きることができるだろうか、ということを考えなければならないからだ。)

砂漠

言うまでもなく、「砂漠」はこの歌集でもっとも印象深い光景のひとつである。『砂丘律』に歌われる砂漠、とりわけ中東の砂漠は、僕たちの住む温暖湿潤な風景とはずいぶん違っていて、まずは新奇な印象を与える。たとえば、次のような歌だ。

アラビアに雪降らぬゆえただ一語ثلجと呼ばれる雪も氷も(143頁)

ثلجには「サルジュ」とルビが振ってある。アラビア語の使用と相まってその乾燥した風景はオリエンタルな魅力を与える。

一方で、僕たちと遠く離れた神秘的な風景のみが描かれているわけではない。『砂丘律』には中東での暮らしを写し取った歌がいくつも収められており、たとえ砂漠に近い街であったとしても、僕たちの知るような暮らしがそこにあることを読み取ることができる。しかしそこには、戦争の影がつきまとっている。

……7月18日286人、7月19日247人、7月20日252人
君の村、壊滅らしいとiPhoneを渡して水煙草に炭を足す(113頁)

駅前の、舞う号外の向こうからいきなり来るんだろう戦火は(141頁)

 すぐ傍にカタストロフが存在し、それがいつか自らの身をも飲み込むかもしれない、ということすら、冷めた目で受け入れること。千種の詠む中東の日常、そこにはこのような感覚が鳴り止まず唸っているように思う。中東における戦争の危機は、必ずしもその砂漠という風土と結び付けられるものではないのだろうけど、こうしたクリティカルな状態は僕たちに、砂漠という致命的環境の非人間性をより強く感じさせるだろう。

砂というよりも乾きの降る街を帰れば鼻に血の熱さかな(182頁)

砂とは種々の固体が摩耗しきって行き着く形態である。いわば砂漠は、地上の最後の風景。それは終局カタストロフを、紛れもない終わりの風景を幻視させる。そうしてみると砂漠は、物質の終局地帯、喪われた様々のものの行き着く先であるのだと言えるかもしれない。砂漠は徹底的に僕たちを拒絶する。僕たちは砂漠のただ中に生きることはできない。それでもなお砂漠に生きるのだとすればそれは、終わりの傍らに立ち、たくさんの喪失を受け入れながら生きることなのだろう。『砂丘律』に詠われる砂漠とは喪失の風景であり、そこには、拒まれた人間の諦念と、それが生む――根源的な――寂しさが刻み込まれている。

そして、この感情は砂漠のみによって生み出されるものではない。乾燥しきった荒野とは一見正反対のように思われる「海」もまた、人間の傍にあって僕たちを拒むものである。

 『砂丘律』という書名のためか、この歌集について語るときには、砂漠、砂、荒野といったイメージの系ばかりが語られることが多い。*1

しかし、丹念に目を通すならば、海あるいは水にまつわる光景が、いくつも織り込まれていることがわかる。たとえば次の歌。

この雨の奥にも海はあるだろう きっとあなたは寝坊などして(240頁)

雪も氷も水も、それらはみな、最後に海へと流れ込む。海はひとつの終着地点だ。『砂丘律』で描かれる水は、この「終わり」へと向かう感覚、終末を予感する感性を帯びているように思われる。

それはしばしば、街を飲み込むような幻想として表される。

このままじゃ 船が河口に沈んだらとても平らな夕景だろう(41頁)

この街が滅んだとしてしばらくは沖に停まってるのかい、タンカー(43頁)

図書館も沈んだのかい沿岸に漂う何千という図鑑(46頁)

 すべての終着地点である海が、いつしかすべてを飲み込んでしまうということ。カタストロフのひとつの形。たしかに海は生命を育むもの、僕たちの生命の誕生にとって欠かすことのできないものだ。しかしながら、ここで海は、あるいは水は、乾きを癒す救いのようなものではない。それは僕たちの生を飲み込み、終末の風景を現出させうる巨大な可能性としてある。安定した大地の上で暮らす僕たちの生でさえ、じっさいには常に脅かされているものに過ぎないのだ。

密にあつまり浮草はあやうい陸をみせる Life is a Struggle(58頁)

氾濫する水の巨大な力に向かい合ったとき、僕たちはどうすることもできない。その広大無辺な世界の力を受け容れることしかできないのだ。僕たちは海のほとりに立ち尽くし、逆巻く波に飲み込まれてしまうだろう。こうした喪失への予感が、『砂丘律』に描かれる海には染み渡っている。

夜のうちに君がいるうちにくしゃくしゃの地図にいまさら海を探すも(31頁)

喪失

そこに通底する「寂しさ」の淵源を探すため、『砂丘律』における「砂漠」と「海」という二つの場所を訪れた。それらの場所は、僕たちの生の傍らにありながらも、決して僕たちの生を救うことのない、致命的な終局のトポスとして感覚されている。圧倒する広大無辺に相対したとき、僕たちはただ無力感に甘んじるほかはない。さまざまな事物が否応もなく喪われていくとき、僕たちはただ、「寂しさ」を抱えて生き延びるのである。

つまりはこういうことだ。「砂漠」と「海」という(エレメンタルな)二つの系によって生成される「寂しさ」は、カタストロフに対してそれを受け入れることしかできない自らの弱さフラジリティに起因する。この世界に存在するすべてのものは、いつしか否応もなく喪われていくほかはない。それゆえ/にも関わらず、生きているかぎりぼくたちは、その喪失を「生き延びてしまう」。『砂丘律』に刻み込まれた豊かな感情の根源は、ここにある。他者を喪失していくことに対する諦念が、自分が「生き延びてしまった」ことの絶対的な疎外感こそが、「寂しさ」を生むのだ。

「砂漠」と「海」とは、他者の行き着く絶対的な終局地点であり、喪失の謂に他ならない。喪われていくのは他者であり、それすなわち「君」である。『砂丘律』の最終盤に編みこまれた連作「認めることの雪について」には、その場面が直接的に描かれることはないにせよ、このような喪失への予感が深く刻み込まれている。

純白に満ちてて、結婚は汚れうる色で、君と砂漠まで逃げてきた(246頁)

吐くものがもうない君の吐くつばにかかってゆく透明な重力(249頁)

君がそのマフラー巻けば冬、けど来年は、いや、二人だ、冬だ(256頁)

糸杉の幹に触れつつ照れながら君は真冬の裏へ回った(258頁)

人は自らの終局を経験することはできない。喪われていくのは事物であり、他者であり、「君」である。「死」という最も明瞭な喪失について考えてみよう。人にとって死とは、常に既に他者の死である。他者は喪われていき、他者の世界が損なわれていく。「死」は不可逆な過程である。他者が喪われていくことを阻止することはできない。

では、喪失を目の当たりにしたとき、僕たちはただどうすることもできないまま見送ることしかできないのだろうか。『砂丘律』は、喪われゆく過去と現在にまつわる寂しさを詠ったのだろうか。

たぶん、そうではない。あとがきに「感情は、水のように流れていって、もう戻ってこないもの、のはずなのにシャーペンや人差し指で書き留めた瞬間に、よどんだ湖やまぶしい雪原になる、感情を残すということは、それは、とても畏れるべき行為だ」と書きながらも、千種はこの歌集を編んでいる。ここには「事実ではなく真実」が詠われ、「感情」が深々と刻みこまれている。喪失は不可避に僕たちのもとを訪れる。しかし、あくまで弱々しい仕方ではあれ、僕たちはそれに抗うことができる。たとえば詠うこと、書くことによって。

「私はお前を担わなければならない」

少しなりとも喪失に抗おうとするとき、次のような言葉を思い起こさずにはいられない。

世界は消え失せている、私はお前を担わなければならない。

パウル・ツェラン「雄羊」

ホロコーストを生き延びたユダヤ詩人、パウル・ツェランの詩の一節であり、フランスの哲学者、ジャック・デリダが『雄羊』で試みた読解によってよく知られるものだ。『雄羊』においてデリダは、他者を喪失すること=ひとつの世界が終わることについて、次のように述べている。 

というのも、そのたびごとに、そのたびに単独=特異にサンギュルリエルマン、そのたびにかけがえなしに、そのたびに無限に、死は、まさしく世界の終わりだからである。それは世界内の誰かあるいは何かの終わり、ある生あるいはある生者の終わりといった、数ある終わりの内の一つであるだけではない。死は、世界内の誰かを終わらせるのでも、数ある世界の内の一つを終わらせるのでもない。死はそのたびに、そのたびに算術の挑戦に立ち向かって、ただ一つの同じ世界の絶対的な終わり、それぞれがただ一つの同じ世界として開始するものの絶対的な終わりを印づける。唯一無二の世界の終わり、人間であろうがなかろうが、しかじかの唯一無二の生者にとって世界の根源として存在する、あるいはそのようなものとして現れるもの全体の終わりを印づけるのである。

そのとき、生き延びる者は、ただ独りで残されるのだ。他者の世界を越えて、生き延びる者は、同様にしていわば世界そのものを越えているか、あるいはその手前にいる。世界の外の世界、世界を奪われた世界の中にいるのだ。彼は、少なくとも自分がただ独りで責任を負う者だと、他者をも彼の世界をも担う定め、消滅した他者と消滅した世界そのものとを担う定めを負う者だと感じている。世界なしに(weltlos)、どんな世界の土地もなしに、以後は、世界の終わりの彼方の地の果てのような、世界なしの世界の中で、ただ独りで責任を負う者だと感じている。(20‐21頁)

ここで世界とは、この世のありとあるものすべてを包含する基体としてのみならず、ある存在にとって特異で代替不可能な現象として表れるものを指す。したがって死は、その存在に特異な世界の消滅を意味する。それゆえ、他者の死のあとに遺された者、生き延びてしまった者は、「世界を奪われた世界の中にいる」。デリダはここに一層つよく倫理的要請を聞き取っている。すなわち、生き延びた者は、彼を遺して消滅してしまう他者=世界を、世界の終わりの果てで「担わなければならない」のだ、という声を。世界という途方もなく巨大なものを担い、他者という無限を担うこと、それは極めて困難なことだろう。それでもなおデリダは、生き延びた者はそれをしなければならないのだと言う。

赤土の水辺にみずがみちていて声もぜんぶぜんぶ覚えていたい(52頁)

しかし、他者を担うとはどのようなことだろうか。デリダの美しい語り口――『雄羊』は、哲学者ハンス・ゲオルグ・ガダマーの死に際してデリダが行った追悼講演を書籍化したものだ――は、意味を取りづらくもある。ひとまずここでは、「他者を担う」ことを、他者を己のうちに刻み込み、想起し、残し続けることだと考えたい。このような喪失への抵抗は、他者の死の瞬間に始まるのではない。「私たち二人のどちらかが、ただ独りで残らなければならなくなるだろうということ、私たちは二人とも、前もってそのことを知っていた。それも、ずっと以前から」(20頁)とデリダが書いているように。きっとそれは、つまり喪失への抵抗は、僕たちが他者に出会った時既に始まるものなのだ。

どうしようもなく世界は喪われていく。僕たちは日々たくさんの喪失を経験する。その取り返しのつかなさに気付くこともなく。あるいは、気付いていながらにして。死者に対してばかりではない。「砂漠を歩くと、関係がこじれてもう話せなくなってしまった人と、死んだ人と、何が違うんだろって思う」(242頁)。僕たちは日々たくさんの喪失を経験する。どうしようもなく世界は喪われていく。そんな中で、他者に対する倫理のため、「君」への手向けのため、そしてたくさんの喪失を抱えて生きていかざるをえない僕たち自身のために、「抵抗」は要請されるのである。それは詠うこと、書くことであり、「明日もまた同じ数だけパンを買」うことでもありうるのだ。

明日もまた同じ数だけパンを買おう僕は老いずに君を愛そう(18頁)

海と砂漠は似ている。

その広大無辺さ。

波が、風が、絶えずその形を変え、「世界」は常に喪われていく。

砂丘律』はたぶん、喪失に対する――ささやかな――抵抗の書だ。生きていくことは、不確かで荒れ果てた浮島の上でもがくstruggleことでしかない。この世界は喪失の予感に満ちあふれている。だからこそきっと、僕たちは忘れずにいたいのだ。日常詠に詠われるささやかな幸せのことを。

スパゲッティ作りあうのを同棲の或る角度として砂時計(244頁)

茄子にぎる手の映りこむ一枚は朝だとわかる すごくありがとう(246頁)

あっ、ビデオになってた、って君の声の短い動画だ、海の(252頁)

 僕たちは喪失していく。喪われたものを取り戻すことはできない。それでも、喪われゆくものを担うことはできる。砂漠へ、海へ、弱々しく手を伸ばし続けること。喪失を抱えたまま生きること。そのようにして僕たちは今日を生き延び、明日へと向かっていくのである。

(了)

 

 

 

砂丘律

雄羊 (ちくま学芸文庫)

*1:数少ない例外は、安田百合絵による評であろう。該当部を引用しておく。「そのあやうさに重なるのは、「砂」。『砂丘律』のそれは、こぼれおちてゆくはかないものとしての砂ではなく、裁きの砂、肺までも乾燥させ、降りつもれば人を圧する、不安にさせずにはおかない砂であるように見える。その砂漠のなかで、魂の渇きを癒やすものとして水(辺)があり、追憶があり、歌のリリスムがある。」なおこの評は千種のブログhttp://dunestune.blog.fc2.com/blog-entry-3.htmlで参照することができる。

あとがき

あとがきというものが好きだ。

例えばかっちりと書かれた学術書であっても、あとがきには著者の私性がほろほろとこぼれだしている。そのほろほろとした感じが好きなのだと思う。

今日は修士論文を提出してきた。出来がよいとは言いがたいものになってしまったので、これが受理されるかどうか、不安の日々はまだまだ続くのだけれど、ひとまず一つの区切りはついたことになる。

専攻や研究室の文化によって学位論文にあとがきを付すかどうかは違ってくるだろう。ぼくが所属しているところにあとがき文化はなかった。だからあとがきを書く必要はなかったんだけど、本文を書いているうち、なんだかうずうずしてきて、本文が完成するよりも前に、あとがきを書いてしまった。出来心。

提出した論文にはあとがきを載せていないので、代わりにここに置いておこうと思う。ぺらぺらと書いたそのままで、推敲とかはとくにしていないけれど、まあ、それもまたいいのだろう。なお、ぼくは荒川修作とマドリン・ギンズというふたりの芸術家のことを研究していた。

 

 

あとがき

ショートステイというかたちで三鷹天命反転住宅に滞在していたときにぼくたちの部屋を訪れてくれた友人は後にこう語ってくれた。「部屋が「生きろ」と言っていて辛かった」。彼女はうつ病を患っていた。時折「死にたい」とぼくに語っていた。

 

『建築する身体』の冒頭には次のような言葉が掲げてある。

生きつづけようと願い、生きつづけることができないできたものたちへ

そのためなおそう願いつづけているものたちへ

あるいは人間を超えていくものたちへ

荒川+ギンズからすれば、「死にたい」という感情を抱える彼女は対象外の存在なのかもしれない。天命反転住宅のあのカラフルで、すさまじく暴力的な部屋は、万人のためのものではないのかもしれない。

なんらかの「救い」を求めて荒川+ギンズの研究を始めた。つまりそれは、「解放」の願い。この世のしがらみから、制約から、ありとある不幸からの解放。

荒川はあるインタビューでこう言っている。

もっとはっきりいえば、全く別な、マチスとか、ああいう作家がもっと完全に主導権をもつような世界に僕たちはいかなくちゃいけないと思うんですよ。もっとおおらかで楽しくて美しい、そういうものの世界へいかなくちゃいけない。完全なハッピーエンドで終わる芸術しか必要のない世界をつくらなくちゃいけない。

 完全なハッピーエンド。ぼくはそれを見てみたかった。たぶん彼は、そこに辿り着く前にこの世を去ってしまった。しかしながら、その場所を、あるいは《空虚》を、垣間見ていたようには思う。

 この世からの解放。ネガティブな形では、それは何度も言われてきた。自死。たとえばエミール・シオラン。あるいは、ポジティブな形では、千年王国の到来。メシア的時間の受苦。しかしそれらは決して訪れることはない。あんまりだと思った。だからぼくは、もっと別の道を、この世にあってなおかつこの世から救われることを願った。荒川とギンズの行った道は、それを指し示しているように思えた。

 彼らは、この「私」というあり方を解体する。そのとき、「私」に課された必滅という宿命は転倒される。「私」というものがない生など考えられるだろうか?もしかすると、ある種の種においてはそれはこれまでにもあったものなのかもしれない。しかし人間という種にとっては?それはまさしく未踏のものであって、それゆえにこそ荒川+ギンズは、「人間を超えていくものたち」に向けてメッセージを発している。畢竟、彼らの要求は超人的なものである。超人。Übermensch。それはまさしくフリードリヒ・ニーチェが『ツァラストゥラはかく語りき』で提出した形象である。

 それゆえか――すぐれた思想家にあってはご多分に漏れず――荒川+ギンズの思想を受容することには苦しみが伴う。彼らの要求に応えることは、まさしく従来の人間というあり方をやめることであり、「私」でないものへと変身することだ。三鷹天命反転住宅は、暴力的な仕方でそれを突きつけるのかもしれない。冒頭に置いた彼女の言葉は、それをある意味真っ向から受け止めたものだ。

 ひとしきり荒川+ギンズの言説と作品に触れ、少しなりともそれを理解したいま、僕はなお荒川+ギンズに魅力を感じる。しかしその一方で、「それはぼくには無理だ」とも感じている。彼らはどこまでも人間のことを考えている。人間が、人間という制約から「解放」されることを目指している。そのための方法を、様々な形で模索している。しかし、どうやらぼくは人間であり続けたいらしい。この「私」として生き、この「私」として「完全なハッピーエンド」へと到達したいのだ。だから、荒川+ギンズの行った道は、ぼくの行くべき道ではなくなってしまった。それは挫折なのかもしれない。挫折であってもいいのだと思う。少なくともまだ、ぼくはぼくとして生きている。

「死なない」ことは重要事ではない。むしろ「生きていたい」と思えることのほうが大事なのだと思う。少なくともぼくの行く先はそちらにある。それがはっきりしただけでも、荒川+ギンズを研究したことは、ぼくの人生にとって意味のあることだったと言えるだろう。

 

指導教員の〇〇先生に深謝を。迷惑をかけっぱなしの不出来な生徒にも関わらず、お忙しい中さまざまなご指摘をいただいた。この論文が書き終わったのは、ひとえに〇〇先生のご指導の賜である。

また、家族にも謝意を示したい。実家を離れ、人より1年多くかけながらも修士論文を書き上げることができたのは、様々な面での支援のおかげだ。あなたたちなしにぼくはこの世にない。ありがとう。

最後に、あとがきに登場した「彼女」にも「ありがとう」を。天命反転住宅を訪れたあなたのそのコメントは、荒川+ギンズを考えるにあたって重要な示唆を与えてくれた。あなたが「死にたい」と言わずにすむ世界を、ぼくは願っている。また散歩に出掛けましょう。

(了) 

 

 

建築する身体―人間を超えていくために

 

 

凝るのもいいけれど

溜めてしまった家事をする。皿を洗い、洗濯ものを片付け、掃除機をかける。カレーをつくっている。

思うに、カレーは炒めものである。油に香辛料の旨味を抽出し、それを玉ねぎになじませていくあたりで工程の八割がたは尽きていると言っても言い過ぎではないだろう。実際には市販のルウを使ったから、だいぶ様子が違う。

以前南インドに行ったことがあって、それで人生変わったかというとそんなことはないわけだけれど、カレーをつくるのだけはうまくなったと思う。日本の街で食べるインド(・ネパール)料理店のカレーは北インド系のものが多いらしい。南インドのカレーはもっとさらりとしていて、スープに近いような感じだ。それを米やらなんやらと混ぜながら食べる。言ってみればねこまんま式だ。

その滞在のあいだ、もうそれはずっとカレーを食べ続ける生活だったけれど、一度もお腹を壊すことがなかったのは幸いであった。急にスパイス満載の料理を食べだしても、それを從容として受け容れるロバストネスが体にあるのだということ。カレーがおいしかったからかもしれない。

インドから帰国して、カレー作りに凝るようになった、ということはない。ルウを使わずスパイスを炒めるところからカレーを作ることもしてみたこともあるけれど、それはもっと後になっての話だ。でも、じゃあ、なんで先述したような具合で、ぼくはカレーを作るのがうまくなった、と言っているのか。

もちろん、おいしいカレー*1を食べて、カレーの「おいしい」についての見識が広がったこともあるけれど、いちばん大きいのは、適当でいい、と思えるようになったことだ。多少失敗してもいいや、ということでもある。別にそれまでだってきっちり作っていたわけではない。市販のルウは優秀で、何を入れても、どこかでとちったとしても、最終的にはたいていカレーが出来上がる。そしてそれはそれなりにおいしい。でも、何も考えずに適当に作ることと、「適当でいい」と思いながら適当に作ることは、やっぱりずいぶん違うようだ。これは、ぼくにとってのカレーというカテゴリが拡張されたためでもあるだろう。

ここで味噌汁の話をしよう。味噌汁に茗荷をいれたことはあるだろうか。ない?それではトマトは?僕は昨年まで試したこともなかった。でも、あるきっかけ*2を得てからやってみると、とてもおいしい味噌汁が出来上がった。その時点まで、味噌汁にトマトを入れることなんて思いつきもしなかった。それは僕にとってトマトという野菜が味噌汁の埒外にあったためだ。食わず嫌い、とは少し違う。ただ、それを知らなかったのだ。知らず知らず、食物や料理に対する感覚は保守化する。知らないことにも気付かないまま、ぼくらは同じ料理を食べ続ける。悪いことではない。それがおいしいのであれば。でも、ある時、ぼくらのカテゴリの外においしいものがあるのだと知ると、途端に豊かな世界がまだまだ広がっていることに気づく、ということがありうる。そしてその時、ぼくたちは、「味噌汁には何入れてもいいんや」と、適当になることができるのだ。

別に変なものを入れればいいということではない。闇の味噌汁をつくりたい人は、そうすればいいだろう。ぼくはおいしいものが食べたいなと思うから、新しい「おいしい」を時に探してみる、というだけの話だ。

きっとあなたにも好きな食べ物があるだろう。ぼくにもある。インドから帰って以来、カレーのことはもっと好きになった。適当につくれるようにもなったし、もっとおいしく感じるようにもなった。この世には、見知らぬ「おいしい」がまだまだたくさんあって、たぶん、もっと多くのものを好きなることができる。自分の手で、わりあい簡単に(高いコストをかけずとも)それを探していけるのだから、料理はいいもんだなと思う。ぼくたちはもっと適当になっていいのだ。

 

今日のカレーはおいしいだろうか。晩ごはんの時間が待ち遠しくなる。

 

 

 

 

エバラ 横濱舶来亭 カレーフレーク こだわりの中辛 180g

一汁一菜でよいという提案

*1:インドへの空路、機内食のカレーでさえとてもおいしかった。

*2:土井善晴の言説との出会いのこと。彼の世界観は家父長制と暗に結託している感じがして、全面的には賛同できないのだけれども、まちがいなく日常の食というものを――Twitterで見かけるような、ごま油やめんつゆ縛りかのような「時短レシピ」なんかとは違って――豊かにしてくれる人物であることは間違いない。

11月半ば

昨晩は風が吹いていた。

秋が深まっていくけれど、風はまだ生温かくて、それからやっぱり雨を連れてきた。

ある映画作家のインタビュー/回顧録を読んでいる。私の知らない過去の時間を実際に生きた人々がおり、なおかつこの同じ時点に今なお存在しているということ。時間というものの幅。

今から六〇年、七〇年前の日本は、まったく別の国のようにも思えるし、実際にはそれほど変わっていないのかもしれないとも思う。

例えば大江健三郎。彼の書く山深い村々。限界集落が取り沙汰されて長くなるけれど、そうしたとき、その村々はまったくの虚構であるかのようにさえ感じられる。しかし、その場所はやはりあったのだということ。そこにも風は吹いたのだということ。

過去はすぐ側にある。歴史は繰り返さず、ただすぐ近くに生き延びている。

 

山本浩貴『現代美術史 欧米、日本、トランスナショナル』、中央公論新社、2019

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現代美術について書かれたものは日々増えていくけれど、「現代美術史」とその名に冠するものはなかなか書かれない。それは「現代美術史」を記述することの困難さに起因するところ大で、きわめてまっとうな理由があるわけだけれど、とはいえ、なんらかのきっかけで「現代美術」に関心をもった人が、ある程度歴史的な理解を得たいと思ったときにひとまず手に取りやすい本――文庫や新書といった枠――というのは、近年殆どなかった。なかったと思う。思う、というのは、少し前から流行りだしたビジネスパーソン向けの現代アートガイドにおいて、どの程度まともな記述がなされてきたのか確認していないからだ*1

そんな中で2019年――奇しくも、4回目のあいちトリエンナーレをめぐって現代アートと社会とが、おそらくは不幸な仕方で様々な接点をもった2019年――に本書、山本浩貴『現代美術史 日本、欧米、トランスナショナル』が刊行されたのはまずもって喜ぶべきことだろう。個人的には「現代美術に興味あるんだけどなんかいい本ない?」というような問いにひとまず答えることがしやすくなったという部分も大きい。

しかしながら、さてはて、本書の語る歴史が、「これを抑えておけば万事オッケー」というような万遍ないものであるかというと必ずしもそうではない。それは著者も記すとおりである。

「はじめに」でも示唆した通り、本書の目的は現代美術の「正史」を編むことではありません。そもそもそのようなことが果たして可能であるのか、あるいは、それが必要なことであるのかさえ筆者には明言することができません。とはいえ、曲がりなりにも一冊の本を書き終えた今では、何らかの線に沿って現代美術が辿ってきた道のりを書き残すという作業には少なからぬ意義があると感じます。(おわりに・307頁) 

 歴史を書くことに孕まれる権力性を知る者ならば誰しも、「正史」なるものを書くことからは距離を置くだろう。その意味で、著者の態度はけっして逃げ腰のものではなく、誠実さによるものなのだと解してよい。それでは、本書の描く歴史はどのような仕方で遠心しており、その試みはいかなる意義を持ちうるだろうか。このエントリでは以上のような問いを念頭に置きつつ、内容に立ち入って感想を残すことよりも、本書の企図について少しばかりの考察をすることを目指してみよう。

 

誠実な歴史記述を目指すための方針には凡そふたつの流儀があると言ってよいだろう。一つは、価値中立的ないし無価値的であることを志向しながら出来る限りおおくの「事実」を記録しようとするもの。その極致はアーサー・ダントーの言う「理想的年代記」である。しかしながらそれは、思考実験としてしか存在しないような、殆ど不可能事でもある。*2もう一つは、ある価値にコミットすることを前提として開示し、ひとつの編集体として歴史を提示するものだ。ある意味、マックス・ヴェーバー的な「価値中立」を志向するものと言ってもよいかもしれない。

「正史」を回避し、遠心を試みる本書が立つのも後者の立場である。著者は力点を設定する。力点には著者がどのように「現代美術」というものを捉えているかが反映される。さらに、その重力によって語られる事象の惑星系が配置される。これにより、語られる「歴史」が象られることとなる。

さて、本書の力点。それは「芸術と社会」というテーマだと宣言される(ⅳ頁)。このテーマ設定の背景で、著者が現代美術の「現在地点」として見据えているのは、ソーシャリー・エンゲイジド・アート(Socially Engaged Art/以下SEA)だ。本書の語る歴史は、いくつもの迂回路を走らせているとはいえ、基本的にこの地点を目指して歩んでいく。その道筋は端的に「前衛美術からソーシャリー・エンゲイジド・アートへ」(ⅳ頁)と概略される。第一章のまずはじめにアーツ・アンド・クラフツを配する――教科書的な現代芸術史ではなかなか見ない――目次構成も、この問題設定につよく要請されたものだろう。日本の戦後美術を扱う第二部において結成年とは逆順に九州派・具体と並んでいるのも示唆的である。

版元の紹介ツイートで「現代アート入門」と記されていることからも分かるとおり、本書は入門書として位置づけられている。しかしながら、その門は「正門」だというわけでもない。もちろん、「正門」なんてありはしないという消極的理由がある。だがそれ以上に、その控えめな身振りとは裏腹に、著者はかなり積極的に、新しい門を開こうとしているように思う。

これは私見でしかないけれど、現代美術史を記述するにあたっってその中心とされることが多いのは、モダニズムだ。例えば、現在最もよく知られる美術批評家・美術史家によって編まれたArt Since 1900の副題に、「Modernism, Antimodernism, Postmodernism」とあることを参照してほしい。*3言うまでもなくモダニズム(もっと言えばクレメント・グリーンバーグ)との対峙の仕方によって一つの現代美術史を記述しうることは確かであり、それが正統と見做されることにもある程度頷ける。それだけの重要性は確かにある。

前衛を起点に置く本書もまたそうした類型の一変種なのだと捉えることもできようが、しかしそれは著者の期するところではないだろうし、そのような扱い方は本書の射程を理解することにはつながらない。本書は「芸術と社会」というテーマを設定することで、2019年という現在地点からモダニズム中心史観(という名前を仮に付けるとして)に対して、現代美術史のアップデートを求めている。

一応述べておけば、本書に書かれていることの多くは、門の内側――アート・ワールド――の人々にとってはおおよそ知られていることだろう。たぶん「うんうん」と思いながら読んだ人も少なくない。しかし、現代美術に体系的に触れたことのない読者にとって、本書に示されるようなパースペクティブを一挙に獲得することは容易でない。類書も少ない。その意味で、本書は確かに新しい門を開こうとしている。新書という親しみやすいかたちをとりながらも野心的な一冊なのである。願わくば、多くの読者が本書を手にとり、現代美術についての関心と理解を深めんことを。

 

最後にちょっと離れた私感を。

「芸術と社会」をテーマとし、前衛を起点とする本書を読了したときにひとつ思ったのは、ペーター・ビュルガーの仕事に今こそ注目すべきではないか、ということだった。ビュルガーは西ドイツ出身の文学者で、文学のみならず美術についても該博な著作を残している。日本語にも訳されている『アヴァンギャルドの理論』(1974)が代表作の一つだろうか。英語圏および日本の議論が中心的に紹介されている本書においてビュルガーは参照されていない様子だったが、本書の描くような歴史を再考する上でも、彼の提出する概念「歴史的アヴァンギャルド」において構想される「新しいタイプの社会参加芸術」なるものを参照することが役に立ちそうな気がする。それに、典型的にはあいちトリエンナーレをめぐって露呈するような「芸術と社会」の問題を考えるにあたっても使える部分が多いような予感がしている。*4

 

本書が脱西洋中心主義を志向したものだという点については触れ損ねてしまった。そのうち機会があれば追記修正をしよう。

 

 

 

 

*1:書いて気づいたけれどこれは確かめてみたほうがよいな、なんとなく倦厭しているようではよくないですね。でも『超訳』的なものであるとしたらそれはとても悲しいことだ。

*2:後に多少触れるが、これまた2019年に邦訳が出版されたハル・フォスター、ロザリンド・クラウスらによるArt Since 1900の分厚さをもってしても、やはり「もう一つ」の方針をとらざるをえないのだ。

*3:

Art Since 1900: Modernism * Antimodernism * Postmodernism

また、同書共著者のロザリンド・クラウスとイヴ=アラン・ボアによって提唱された「アンフォルム」――この概念は山本『現代美術史』では扱われていないが、現代美術史の記述としてある程度重要なものだろう――もまたモダニズム≒フォーマリズムの批判を念頭に置いていたことを想起してもよい。

*4:「気がする」「予感がしている」というのは、僕自身ビュルガーに関心を持ちつつ全然読めていないからです。勉強しよう。

黒島追想

「黒島」と名のつく島は日本にいくつかある。今回書きたいのは、長崎県佐世保市に所属する黒島のことだ。

(ここです)

kuroshima_location

 現在の居住者は五百人ほど。それほど小さくはなく、しかし決して大きくもない。本土からはフェリーに乗って1時間足らずで着く。やはり遠いという程ではない。

 僕はこの島を数年前の夏に訪れた。さした理由があったわけではない。でもなんだか島に行きたかった。物理距離ではなく、精神的に遠くに行きたかった。それで九州への帰省ついでに行けそうなところを探し、この島のことを知ったのだった。一泊したけれど、それほど観光名所がたくさんあるわけでもないし、たぶん日帰りでも十分に回ることができるだろう。

 佐世保からローカル線にしばらく乗る。都内の有名私立男子中の登山部か地理部と思われる子どもたちが同じ車両に乗っていた。先に降りたのは彼らだ。どこに向かっただろうか。それからいくつかの駅の後、僕は相浦という駅で降りる。無人駅。海が見える。ホーム上の待合所にはいつのものともしれない落書きがたくさん書いてある。電話番号を書き込んだものもあって、今でも通じるだろうかと考える。電話をかけはしなかった。

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そこには漁港と工場プラントがあった。お昼ごはんを食べたような気もするし、コンビニで調達してフェリーに乗っているあいだに食べたような気もする。よく覚えていない。港は入り組んだ海岸線の内側に築いてあり、波も静か、海は穏やかにきらめいていた。

umi

待合所には僕と同じ便に乗るであろう人が数人いた。帰省らしい家族、中学生か高校生くらいの制服姿の女の子、腰の曲がった老女、商売に行くと思わしき二人組(軽トラのディーラーぽかった)など。勝手知ったる様子でそれぞれに暇を潰している。僕はなんとなくそわそわしている。いつもそうだ。旅人なんてかっこいいものではない、観光客という身分の落ち着かなさ。港を歩き回り、海を眺めた。住民でも参与者でもない者は傍観者となる。

フェリーについて特筆することはない。船は相浦の港を出て、途中高島という島に寄り、黒島へと向かう。制服姿の女の子は高島で降りていった。google mapを見てみると、高島には中学校以上の教育機関が存在しない。たぶん彼女は高島から本土の学校に通っているのだと思う。島というと遠くの印象をもってしまう。おおよそ平地で育ってきたゆえの先入観だ。しかし八王子から新宿に出るのだって一時間近くかかる。出た先が相浦か新宿か、というのは大きな違いではあるけれど、とはいえ航路もまた日常の足となりうるのだということ。たぶん、日常的に海を渡るような生が、この島国にも案外存在するのだろう。見知らぬ土地に出かけることとは、異なる生とすれ違いにいくということだ。それは国境を跨ぐかどうかに関わらない。

昼寝する間もなくフェリーは黒島に到着する。近づくにつれ、海上に隆起した森とでも言うべき、島の様子が明らかになる。この島の名の由来のひとつに、木々が鬱蒼と茂り海から見たときに島影が黒く見えるため、という説がある。確かに森は海の間際まで迫り、犇めいている。その中に細い道路が引きこまれている。

kuroshima_entering

森と海のわずかな隙間に黒島港はあり、下船した人々は思い思いの仕方で森のほうへと向かっていく。港には観光案内所のようなものがあって、そこで自転車をレンタルすることもできたのだけれど、僕は歩いていくことにした。島は全体として山のようになっており、中央部にかけて土地が高くなっている。中央部は開けており(かつて開墾したのだろう)、そこに学校や田などがあり、中心的な集落がある。港からそこまでは歩いて30分くらいだった。僕が泊まった民宿もその辺りにある。人が暮らしているのだということ。しばし少ない往来を傍観する。

kuroshima_center

さて、黒島の名の謂れには別なものもある。曰く「クルス島」から転じて黒島。どういうことか。クルスとはすなわち十字架である。この島には古くよりキリスト教が根付いていた。伝来は戦国時代に遡るらしい。本土からの脱出者なども加えながら禁教の時代にも信徒は潜伏し、今なお島に暮らす人々の半数以上はキリスト教徒であるらしい。そんな島の象徴的な存在がある。「黒島教会」(写真右)だ。

catholic kuroshima church

予想以上にかなり立派で、しっかりとしたロマネスク教会だった。竣工は1902年。江戸時代が終わり、禁教が解かれた信徒たちと、フランスから渡来した神父によって築かれたものだ。2018年には「長崎と天草の潜伏キリシタン関連遺産」の一部として世界遺産にも登録されている。とはいえしゃっちょこばったものではない。めちゃめちゃ観光客が訪れるわけでもなく、現役で運用されている教会である。*1教会内部には信徒の子どもたちの当番表(礼拝のなんらかの部分を当番制にしているようだった)や、自治会のお知らせチラシ的なものが張ってあったりした。内装はおもしろい。天井は棕櫚の葉のようなものが葺いてあるように見えた*2(屋根ではなく天井も葺くと言っていいのだろうか)し、祭壇の床には伊万里焼のタイルが使われている(らしい、これはWikipediaを読んで知ったこと)。様式が比較的しっかりとある教会建築というものでも土地土地の条件によって少しずつ装いを変えるのが興味深い。きっとアジアへのキリスト教の伝播とそこで建築されていく教会たちのことなんかを調べると面白いんだろうな、とその時は思った。今ふたたび考えてみると、たとえ教会の震源地に近づいていこうとも、都市と田舎ではずいぶん条件が異なるわけで、アジアにまで広がらずとも様式の伝播と作り変えのダイナミズムは生まれているのだろう。こちらの方は建築史の研究がもっとたくさんあるのだろうと思う。まだ調べてはいない。

教会内部は興味深くまた美しい空間であったけれども、僕は一枚も写真を撮らなかった。いつもそうだ。教会の内部でカメラを構えるのは腰が引ける。それもたぶん、僕が傍観者だからだ。

港から中央部へとあがった道をそのまま進めば、島の反対側にくだっていく。のぼり道の先にはくだり道がある。そのようにして世界は辻褄を合わせている。進めば進むほど普段の人通りも少ないのか、道を覆う森はますます深くなる。

forest_road

ハイデガーの「杣径」という言葉を思い出したりする。しかしこの杣道の先にあるのは芸術作品の根源ではない。

seascape

海だ。大地ではなく海が明るみに開かれる。黒島は絶海の孤島ではない。向こうには本土が見える。本土は、つまり権力はこの場所からすぐ近くにある気もするし、なにか徹底的な途絶があるようにも思える。禁教期、隠れキリシタンが潜伏していたのは多くの場合島嶼・沿岸部であった。中心と周縁。追いやる者と追いやられる者がいる。森の果てた海辺、僕は立って、それを傍観している。

黒島には教会のほかお寺もあるけれど、島民の多くは今なおキリスト教を信仰しているそうだ。例えば僕がこの島に生まれたとしたら、キリスト教徒となっていただろうか。毎週教会に通い、礼拝当番を担当するような?黒島の信徒たちの実際の信仰生活のことはわからないけれど。よそへ出かけることとは、ありえたかもしれない無数の生とすれ違い、他でもなく今このようにある他でもない自分の生を返り見することでもある。それはすこし、ホームを通過していく回送電車を眺める人が、今どうしようもなくこの駅に釘付けされているのに似ている。

夜、「人んちの空き部屋」といった趣の宿泊先から出て見た空には、星がよく見えた。この島に信号はない。

woods

 

*1:2019年3月より改修工事が行われているようで、現在の状況は僕にはわからない。僕が訪れた当時の話だ。

*2:本当にそうだったか若干怪しい、木の板だったのかもしれない。

わからぬものの肌に触れる

最近ツイートしたことに関連して思ったこと、忘れたくないので、エントリとしてまとめなおそうと思います。

別になんら新しい思いつきではないから、再確認のためのメモのようなもの。屋上屋。再三語られてきたことについて語り直すこと。

かつて知人が行ったジャグリングの公演の記録映像を見ていた。それはしばらく前に行われたもので、僕は実際の舞台を見に行ってはいない。記録映像は1年ほど前から折に触れて見ている。それはジャグリング・カンパニーの舞台で、しかし、朗読を伴うものだ。「伴う」といってしまったけれど、ジャグリングと朗読、どちらが主体とも言えない。それらと、BGMや照明といった要素が総合されて、舞台は成立していた。

ジャグリングには詳しくない。詳しくないというか、全然知らない。例えばあるシークエンスの技術的な凄さとかについては、たぶんフィギュアスケートよりもわからない。

だから最初にその記録映像を見たとき、僕は朗読を中心に鑑賞してしまった。僕は色んなものを見るときにどうしても物語を探してしまう傾向にある。物語という時間形式は「語」の示すとおり言葉と分かちがたく結びついている。朗読とはまさに「語り」の行為だ。そういうわけで、朗読を鑑賞のよすがとしてしまって、ジャグリングのことはよく見ないままにその映像を見ていた。

折に触れてその映像を見ている。で、先日再生していたときに、ようやく「ジャグリングのことが見られたかな」という瞬間があった。とはいえ、その間にジャグリングについての知識が増えたわけではない。「これはこういう技で、それがこう展開するのね」みたいな鑑賞の仕方をしたわけではない、相変わらず。

ただその時、パフォーマーの動きだけを見ていて、感情が湧いた瞬間があったのだ。感情の中身はよくわからない。宙にあがり落ちる球、回転する円、交差する腕、ただそういうものを見ていて、それらをなんら理解することがないまま、それでも感情が生まれた瞬間があったのだ。感情というよりも情動という言葉のほうが適当かもしれない。emotionと言うよりもaffect。何物かに触れたということ。何もわからないままだけれど、その時ようやく、「見る」ことを始められたような気がした。

いわゆる「芸術」はいつだって、わからないなりに生じる情動とともに始まる。たとえどれだけ理知的な作品であっても、理解以前に生じる情動のようなものが僕たちを引きつける(鑑賞者のタイプによるとは思いますが)。僕はまあ、そういう”神秘体験”につられて「芸術」を求める類の人間だ。件の記録映像は、そういう瞬間がありうるのだということを、「芸術」のこと好きだったな、ということを、思い起こさせてくれた。ちょっと「芸術」のことを特権視しすぎた書き方をしてしまった気がする。名前は何でもいいとは言わないまでも、そこには他の言葉が入りうるだろう。

個人的な連想で「芸術」まで敷衍してしまった。忘れないうちにジャグリングに関して考えたことを抄しておこう。

・ジャグリングは身振りの成すもの

・身振りはパフォーマーの身体と使用される道具からなる

・ジャグリングの身振りは反復されることが多い――他の形式との違い

・身振りは常に重力との緊張状態にある

・緊張の中で危うい均衡を保ちながら、身振りは「形態」を創出する

・「形態」とは唯一無二性、固有性、此性みたいなこと

・「形態」が我々に触れ、理解以前の情動を生む

こんなところだろうか。全然明晰にはならないが、ジャグリングを見るということのスタート地点に立った感じがしている。ちょっと他のジャンルの観点を持ってきすぎかもしれないけれど。

なおこのカンパニーの公演が近々行われるらしいのでとても楽しみ。