屋上屋

屋上で小屋を建てている

日記 20230913

在宅勤務が主である職場であるのと、今年の夏の耐え難い暑さとがあいまって、すっかり外に出る習慣がなくなってしまった。天気予報を見ているとその夏も着実に終わりへと向かっているようではあるけれど、たまの買い物で外に出たならば猛暑が続いているのである。などと書きながら窓を開けて夜気を吸い込んでみる。夜になれば涼しく、という期待は裏切られ、やはりじめじめ、のっぺりとした夏の夜が続いている。秋くらいしかまともに生きられないので、早く涼しくなってほしいと思う。

最近はなんだかぐったりしていて前に進む意思を欠いている。漫然とした日々を過ごしている。漫然としているのは自分だけであり、周囲では着実に時が過ぎ去り、自分がやるべき仕事は着実に積み上がる。タイムスパンの構え方がずれてしまっていて、心なしか疲れる。仕事のほかも同じようなもので、自分が生きている時間というものが、自分という生物のタイムスケールと乖離しているような気がする。おそらくはもう少し「前」となる方角を定めてそこに向かう運動をした方がよく、それは職業生活の中でというよりはむしろ「ライフワーク」をやるべきというところに落ち着きそうだ。

相変わらず世界にはevilなことが多くて嫌になってしまう。自分自身の拠り所になるものを自分の手で仮構=創話し続ける必要がある。それを怠ってはいないか。観察することと記述すること。やめないこと。続けることの持続。持ちこたえること。生き延びること。

日記 20230815

ユートピアとトランジット,ノスタルジーとトランジット.トランジット・パッセンジャーは待機している.未来を忘却し,過去を濃縮しながら.何もしない.だが透明で,晴朗で,軽やかな微動を忘れずに.

細川周平『ノスタルジー大通り』*1

 

友人たちとの夏の合宿を終える。しばしば会った人々、それからしばらくぶりの再会となった人々、あるいは初めて会った人々も、多くの友だちがやってきて机を囲み、言葉を交わす。それはどことなく《ユートピア・ステーション》*2のようでもあり,このどこにもない「駅」に人々が立ち寄って,また去っていくのだった.しばしば束の間のトランジットが深い印象を残すことがあるように,瞬間と永遠が重なり合うあの稀有な一瞬のように--とまで言うと着飾りすぎだけれど--temporalな場所・時間であること,その有限性こそがしばしばユートピア的なものを現出させる,ということなのだろう.

合宿の宿泊地が特別な場所であることは認めないといけないけれども,と一定の留保をしつつ,いついかなる場所においてもそこが「駅」に変転する潜在的な可能性は存在しているのだと思う.ちょっとしたきっかけで,それとたぶんちょっとしたcharmがあれば,そこは「駅」になってくれるだろうし,色々な駅に立ち寄る各駅停車の生は,余白に充ちてよりいっそう生きるに値するものになりそうだ.

自分自身があまりそういうタイプでないことを分かりつつも,チャーミングな人物でありたいなどと考えながら帰宅.合宿中に食した八角とシナモンで煮た桃のコンポートとその副産物であるシロップは記録的おいしさだったのだが,うちで仕込んでいた梅シロップもまた透明な甘さがあり,ほがらかにおいしいのだった.

 

 

 

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君たちはどう生きるか

実家の裏手には竹林があり,竹林を越えると溜め池があった.竹のあいだを進んで堤に登ると池を見渡すことができる.その光景に一際目立つのが,池に住み着いていた大きな青鷺だった.大きな翼がゆっくり近づいてくる.小鳥たちが途端に散っていく.そうして枯れすすきの合間に一羽佇む姿には威厳があり,また孤独があった.まわりの農家にとっては害鳥であったろうと思う.しかしぼくにとって,その大きなシルエットは気高さを感じさせるものだった.

君たちはどう生きるか」を観たので感想をゆるやかに書く.書こう.

作品について考えようとすると,波紋に小さく揺らぐ水面に映る自分の姿を見るようで,すこし怖くなる.それはまた汲み尽くせぬ泉のようでもあり,自分のバケツで汲み出せた水がとてもちっぽけなものであるようにも思える.大きな作品だったと思う.それを水源として,僕の大地に川が流れ始める.川は大地を潤し,耕す.その土地にどのような花が咲き,実を落とし,大地をまた耕しているのか,それをつぶさに観察したい.もしくは花はまだ咲いておらず,ようやく芽吹いたところなのかもしれない.ぼくはその芽を育てたい.その芽がどのように根を張り,どのように育つのかを観察したい.あるいはまた,川の流れは何かをきれいさっぱり押し流してしまったかもしれない.それもよい.大地がどのように姿を変えたか,それをぼくは知りたい.

まだ分からないことが多いのだけれど,いまのところ,「君たちはどう生きるか」という表題の問いかけとは裏腹に,生そのもの,というよりも生誕そのものを肯定し,(不可避な呪いを背負いながらも)祝福することが中心的な主題だったのではないか,と感じている.もちろん主人公と父や「母」との葛藤であるとか(「母」は母であることと「折り合いがついた」ようにも思える,それが幸福なことなのかは分からない),世界の命運を決める選択であるとか(これに関していうと,たとえどのような選択をしたとしても,主人公は生き残りsurviveであらざるを得ないのであり,「担わなければならない」ものは変わらないのではないか,と思う),遠景に退いた(しかし意識せざるをえない)戦争のことであるとか,監督のライフヒストリーとの関わりであるとか,過去作やその他の引用によるアレゴリカルな構築であるとか,その他さまざま語りうるものはあると思う.それについてはすこしずつ整理していきたいけれど,急いで語るべきことでもないような気がしている.とはいえ,中心的な主題は何かということについても急いで語るべきだというわけではないけれど.

見切り発車で書き始めてみると,言葉が育っていなくて,印象以上のことが全然言えないことがわかった.それでよい.まだ川は流れている.

日記 20230715

Github Pages でブログをホストしてみたりするなどしていたので,はてなのほうにはずいぶん長くご無沙汰になっていた.commit して push して CI が回って記事が公開される,というプロセスもおもしろいのだけれど,さっくり書こうと思うときにはやっぱり手間だ.

それにまた,ブログのためのプラットフォーム上にあるかないか,というのは大きな違いだ.はてなにははてなの,書く人たちの共同体があるな,と久しぶりに戻ってきてみて思った.ツイート(あるいはtoot/thread)の速度感よりはもう少しゆるやかな時間が流れていて,好ましい.

 

書くことの,自分にとっての意味を,最近はしばしば考える.自分にとって書くものというのはもはやブログくらいなものだけれど,ここしばらくの間はそれすらも書かなくなってしまっていた.世の中には書くことが生きることと同伴している人もいる.そうした生き様に憧れていたのだけれど,どうやら自分はそうした類の人間ではないようだ,ということもわかってきた.とはいえ,「書くこと」に対する憧憬がついえたわけでもなく,一切書くことをしないでいると,それはそれで座りが悪いものがある.実存そのものだというわけでもないけれど,しかし確かにその一部ではあるようだ.

まあ,であるならば,細かいことを考えずに書くのがよいのだろう.誰に読まれるということを期するのでもなく,ただ覚えておくために––あるいは忘れるために.

日記 2022-06-16

アドルフ・アイヒマンが「凡庸な」という形容詞から想像されるような平均的人物ーーつまり平均的な程度に無能な人物ーーでは決してなく、むしろ彼はきわめて勤勉で優秀な働きをみせる労働者だった、ということが共通了解となってから既に久しい。アイヒマンは「凡庸な悪」というよりもむしろ「非凡な悪」であったのだと言われさえする。とはいえ、彼についてアーレントが述べた「凡庸な悪」「悪の凡庸さ」という言葉は失効してしまうのかというと、それは必ずしもそうではないだろう。そもそもアーレントが「凡庸」という言葉で表そうとしていたのは悪行の程度ではなかった。それは人が非常に容易に「悪」に陥ってしまうということの凡庸さであったのであり、アイヒマンの凡庸さはそのまま私の凡庸さでもあるのだった。

ところで、ここで言う「悪」とはなんだったかざっくり思い出すと、それは思考停止であり思慮の欠如のことであった。だから、「悪の凡庸さ」という言葉を安易な形で我々自身に差し向けてみれば、「いつも考えることが大事」という紋切型の教訓が生み出される。これだけ見るとかなり凡庸な結論になるけれど、その場面ごとの個別具体性に埋め込まれながら考えていくとき、その思考は必ずしも凡庸なものだとは言えないだろう。少なくともそうだと信じたいな、とは思う。

 

 

また別の話。「小さい秋みつけた」のようにして「小さい悪みつけた」となるような瞬間が折々にあり、そういうものを見つけると、世界への信頼が目減りしてぐったりしてしまう。

セブンイレブンのサービスの一つであるところのネットプリント、これはご存じのとおり事前に資料をアップロードしておいてそれをセブンの店舗で印刷することができるというサービスだが、資料をアップロードする際に印刷時の色指定をしていない場合、店舗で印刷しようとするときのデフォルトはカラー印刷となっている。それに気づくことなくプリントを始めてしまえば白黒印刷と比べると料金が2.5倍違うわけで、うっかりしている人間に対して優しくないというか、さもしい魂胆が感じられて evil だなあと思ってしまった。小さい悪をみつけて、少しうんざりしてしまう。奪い合うのではなく、納得して対価を支払うことによって成立する社会が好ましいな、と思う。