屋上屋

屋上で小屋を建てている

週末とその周辺・リミックス

熱は下がる。

相変わらず空の青みが薄い。夏に近づけば近づくほど、空の青みは薄れていくような気がする。それでは、僕らの記憶に残る、いつかの天高くまで突き抜けて青いあの夏空は、いったい何なのだろう。サマー・コンプレックス。

のそのそと起き出し、朝のうちに『騎士団長殺し』を読み終わる。2年間くらい本棚に積みっぱなしだった『みみずくは黄昏に飛びたつ』をようやく開く。誰に止められた訳でもないのに、『騎士団長』に踏み込んでいるらしいという話を聞いてから、それを読了するまでは取っておこうと決めていた。勝手な制約。いくつもの縛りをそれとなく設けながら、自分の形を確かめている。

 

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鴨居玲《肖像》, 1985

作中何枚かの絵画が登場するわけだけれど、そのうちの2枚について、鴨居玲のことを思い出す。顔面をその手に持つ無貌の人。いくつもの仮相をとってそれは僕らの前に現れる。幾度となく。それは勝手な制約のようなものかもしれない。

*

風邪は快癒しない。失われたものを回復するのには長い時間がかかる。一度澱んだ流れはしつこく滞留する。流れによって僕は多くの物事を理解しているのだという気がする。いくつもの流れがあって、その入り交じるところに浮き沈むのが僕という存在だ。流れが滞ってしまえば僕という存在もどこかうまくいかなくなってしまう。そんなときには何らかの仕方で流れを通してやる必要がある。溜まった洗濯物を片付けること。花瓶の水を変えること。涙を流すこと。

六本木アートナイトをしばし漂流。土方巽「疱瘡譚」の映像が上映されていて驚く。基本的にきわめてどうでもいいものの中に、これであったり数年前のダムタイプ上映であったり、ハードコアのアートが挿入されているのが面白いと思う。

村上『海辺のカフカ』を読む。散らかっているはずの物語が、なぜだかある地点において収束している気にさせられる。カタルシス。「文学とは感情のハッキングである」とは、山本貴光『文学問題(F+f)+』の売り文句だった。

「世界はメタファーだ、田村カフカくん」と大島さんは僕の耳もとで言う。「でもね、僕にとっても君にとっても、この図書館だけはなんのメタファーでもない。この図書館はどこまで行っても――この図書館だ。僕と君のあいだで、それだけははっきりしておきたい。」

「もちろん」と僕は言う。

「とてもソリッドで、個別的で、とくべつな図書館だ。ほかのどんなものにも代用はできない」

僕はうなずく。

 

村上春樹海辺のカフカ 下』新潮社、2005:523

 村上春樹はもちろんとても緻密な作家だから、その筋書きもまたよくよく構成されているはずだ。しかし僕は物語の糸に絡まったまま解すことをせずに読み進め、ここに至って何も理解しないままにただ一粒涙を落としてしまった。「文学とは感情のハッキングである」。感情は思いもよらぬ仕方で呼び起こされることがある。

招かれて友人と素麺を食べる。ついでに西瓜もいただく。夏はそれほど得意ではないけれど、夏の訪れがすこし楽しみになる。

萎れてしまった花を花瓶から除け、まだ生き生きとした一輪を挿す。花の美しさでさえ、交換可能なものなのだろうか。すこしずつ、雨の匂いが近付いている。季節の変わり目には風邪を引きやすくなる。

 

 

騎士団長殺し 第1部: 顕れるイデア編(上) (新潮文庫)

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みみずくは黄昏に飛びたつ

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海辺のカフカ (上) (新潮文庫)

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文学問題(F+f)+

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夏への扉 (ハヤカワ文庫SF)

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