屋上屋

屋上で小屋を建てている

二十歳のセンチメンタリズム

J'avais vingt ans. Je ne laisserai personne dire que c’est le plus bel âge de la vie. Tout menace de ruine un jeune homme : l’amour, les idées, la perte de sa famille, l’entrée parmi les grandes personnes. Il est dur d’apprendre sa partie dans le monde.

Paul Nizan. Aden, Arabie.

 

二十歳というのはやはり特別な年齢なのだろうか。ご多分に漏れずかつて僕だって二十歳であった。もうずいぶんと前にその時期を過ぎてしまったけれど、ときどき、僕の二十歳とはどんなものだったろうか、と考え込んでしまう。この決定的な時期に僕は、なにか決定的なことを為しえただろうか、と。そういう意味では、僕はまだ、二十歳のセンチメンタリズムを引き摺っているのだと言えよう。

いま僕が二十歳という年齢について思いを巡らせているのは、つい先ごろに高野悦子の『二十歳の原点』を読んだからだ。

二十歳の原点 (新潮文庫)

出版は1971年、学生運動の熱気が去ってのち、そして著者自身が69年に二十歳にしてこの世を去った2年後のことである。この本は、高野の自死ののち残された日記を遺族が編纂してものされたものだ。学生運動との微妙な距離、あるいはひとりの個人として資本制と全面的対決を行うことの困難さを吐露する、内的でかつ時代に彩られた言葉が綴られている。

そもそもこの本を読み始めたのは、國分功一郎『暇と退屈の倫理学

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)を読んだあと眺めていた、同書のブックフェアに際して國分が挙げたブックリスト(https://www.kinokuniya.co.jp/c/store/Shinjuku-Main-Store/20111215201539.html)に入っており、なんとなく興味を喚起されたためだった(それに、文庫は手にとりやすい。本の判型にもいろいろとあるけれど、文庫本が好きだと思う。小さくて安い。ポケットに入る)。おそらく國分はここで、退屈に殺された者の徴候例として『二十歳の原点』を取り上げている。運動に参加するかどうか――あるいは代々木派であるかどうか――がある種の決定的な差異であると感じられていた時代に、自己をどのように定立すべきか、高野にとってのもっとも大きな問題はそれであった。しかし一方でその自己決定の仕方は、実存主義決断主義の魅せる幻影でもある。自分が何者であるか、それを何らかの立場に寄せる形で決定しようとすることは、実際には、(大文字の)他者に自己を同一化することで、「気晴らし」をしようとすることでしかない。とはいえ何者かになることとは、おしなべてそのようなことである。ニーチェの言うような超人であることはとても難しい。高野は自己の確立を目指しアイデンティティの隘路でもがくうち、摩滅してしまった。

二十歳が特別な時期のように見えるのは、やはりそれが我々にとって端境期であることに大きな要因を求めることができよう。二十歳という年齢は、まずは「大人」になる年齢として想起される。酒を飲み、煙草を吸い、馬券を買うことが許される年齢のことだ。とはいえ、そんなことは些事でしかない。もっと大事なのは、この時期に人は「子供」から「大人」となるのだということ、つまり、保護者の庇護下を離れて、一人立ちしていくのだということだ。これはきわめて近代的な事象、近代という時代に局限された事象であり、そしてそうであるからこそ、一人立ちするということは、生きていくために労働に身を投じ、資本制にいよいよ組み込まれるということに他ならない。

高野の日記は、終盤に明らかに「終わり」へと向かって加速していくのだが、そのターニングポイントにもこの問題がある。

◎五月三一日

 きのう東京にて。姉と話す。父母と話す。決裂して飛び出す。八・〇〇PM京都につく。非常に疲れている。次第に自分に自信をなくしている。

 

「家族との訣別」経済的自立を目指せ。(...)

(188頁)

 最後の日記の日付は六月二十二日となっている。さておき、彼女が「家族との訣別」を果たさねばならなかったのは、ひとつには闘争学生としての自己の有り様を両親は決定的に理解し得ないと思われたためであり、またひとつには、両親より仕送りを受ける大学生という自らのブルジョワ的身分と、「闘争」の理念が大きく乖離していると思われるためであった。それ以前より高野は自らの生活費をアルバイトで賄うことを決定し実行していたのだが、「訣別」により今度はいよいよ「金がない」という生存の不安に脅かされることとなった。次に引くのは先の引用の翌日、六月一日の日記である。

 姉の家を一銭も持たずにとび出し、東京のどまん中を二時間半も歩いた。お金がないということ、それは決定的だ。テレする十円さえもなくて、落ちていないかと路面ばかり見て歩いた。まさに乞食だ、ルンペンだ。

 

 生きることは苦しい。ほんの一瞬でも立ち止まり、自らの思考を怠惰の中へおしやれば、たちまちあらゆる混沌がどっと押し寄せてくる。思考を停止させぬこと。つねに自己の矛盾を論理化しながら進まねばならない。私のあらゆる感覚、感性、情念が一瞬の停止休憩をのぞめば、それは退歩になる。

 怒りと憎しみをぶつけて抗議の自殺をしようということほど没主体的な思い上がりはない。自殺は敗北であるという一辺の言葉で語られるだけのものになる。

(190頁)

 生きることは苦しい。まさに。彼女は思考を停止させないことによってこれに抗しようとする。流れ去っていく日常に、楔を打ち込もうとすること。しかし彼女の闘い方は身に親しんだ運動の論理と言葉に執着することともなり、それによって彼女の生に「停止」を招来してしまったかのようにも思われる。『暇と退屈の倫理学』ふうの言葉を使えば、彼女は環世界移動能力を生かすことができず、退屈にやられてしまったのだと思う。

彼女の自死を「敗北」だ、未熟な学生のセンチメンタルだと嘲笑うことはたやすくて、そして実際にそういった側面は否定しえないものでもあるけれど、それにしても、五十年を過ぎて今彼女の日記を読むとき、少なくとも彼女にとってこのセンチメンタルはきわめて大きな問題であったのだ、ということは言っておかねばならないだろう。そしてそれはまた、資本制下に生きざるをえない我々の問題でもあるのだ。

なんだかずいぶん長く『二十歳の原点』について書いてしまった。ほんとうは二十歳を生き延びてなお、二十歳のセンタリズムはしばしば回帰してくるのだということを書きたかったような気がするのだけれど、ひとまずこのあたりで一旦切り上げることにしよう。

 

 

ポール・ニザン著作集〈1〉アデン アラビア

 

二十歳のエチュード

アーレントのマルクス: 労働と全体主義