屋上屋

屋上で小屋を建てている

わからぬものの肌に触れる

最近ツイートしたことに関連して思ったこと、忘れたくないので、エントリとしてまとめなおそうと思います。

別になんら新しい思いつきではないから、再確認のためのメモのようなもの。屋上屋。再三語られてきたことについて語り直すこと。

かつて知人が行ったジャグリングの公演の記録映像を見ていた。それはしばらく前に行われたもので、僕は実際の舞台を見に行ってはいない。記録映像は1年ほど前から折に触れて見ている。それはジャグリング・カンパニーの舞台で、しかし、朗読を伴うものだ。「伴う」といってしまったけれど、ジャグリングと朗読、どちらが主体とも言えない。それらと、BGMや照明といった要素が総合されて、舞台は成立していた。

ジャグリングには詳しくない。詳しくないというか、全然知らない。例えばあるシークエンスの技術的な凄さとかについては、たぶんフィギュアスケートよりもわからない。

だから最初にその記録映像を見たとき、僕は朗読を中心に鑑賞してしまった。僕は色んなものを見るときにどうしても物語を探してしまう傾向にある。物語という時間形式は「語」の示すとおり言葉と分かちがたく結びついている。朗読とはまさに「語り」の行為だ。そういうわけで、朗読を鑑賞のよすがとしてしまって、ジャグリングのことはよく見ないままにその映像を見ていた。

折に触れてその映像を見ている。で、先日再生していたときに、ようやく「ジャグリングのことが見られたかな」という瞬間があった。とはいえ、その間にジャグリングについての知識が増えたわけではない。「これはこういう技で、それがこう展開するのね」みたいな鑑賞の仕方をしたわけではない、相変わらず。

ただその時、パフォーマーの動きだけを見ていて、感情が湧いた瞬間があったのだ。感情の中身はよくわからない。宙にあがり落ちる球、回転する円、交差する腕、ただそういうものを見ていて、それらをなんら理解することがないまま、それでも感情が生まれた瞬間があったのだ。感情というよりも情動という言葉のほうが適当かもしれない。emotionと言うよりもaffect。何物かに触れたということ。何もわからないままだけれど、その時ようやく、「見る」ことを始められたような気がした。

いわゆる「芸術」はいつだって、わからないなりに生じる情動とともに始まる。たとえどれだけ理知的な作品であっても、理解以前に生じる情動のようなものが僕たちを引きつける(鑑賞者のタイプによるとは思いますが)。僕はまあ、そういう”神秘体験”につられて「芸術」を求める類の人間だ。件の記録映像は、そういう瞬間がありうるのだということを、「芸術」のこと好きだったな、ということを、思い起こさせてくれた。ちょっと「芸術」のことを特権視しすぎた書き方をしてしまった気がする。名前は何でもいいとは言わないまでも、そこには他の言葉が入りうるだろう。

個人的な連想で「芸術」まで敷衍してしまった。忘れないうちにジャグリングに関して考えたことを抄しておこう。

・ジャグリングは身振りの成すもの

・身振りはパフォーマーの身体と使用される道具からなる

・ジャグリングの身振りは反復されることが多い――他の形式との違い

・身振りは常に重力との緊張状態にある

・緊張の中で危うい均衡を保ちながら、身振りは「形態」を創出する

・「形態」とは唯一無二性、固有性、此性みたいなこと

・「形態」が我々に触れ、理解以前の情動を生む

こんなところだろうか。全然明晰にはならないが、ジャグリングを見るということのスタート地点に立った感じがしている。ちょっと他のジャンルの観点を持ってきすぎかもしれないけれど。

なおこのカンパニーの公演が近々行われるらしいのでとても楽しみ。