屋上屋

屋上で小屋を建てている

山本浩貴『現代美術史 欧米、日本、トランスナショナル』、中央公論新社、2019

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現代美術について書かれたものは日々増えていくけれど、「現代美術史」とその名に冠するものはなかなか書かれない。それは「現代美術史」を記述することの困難さに起因するところ大で、きわめてまっとうな理由があるわけだけれど、とはいえ、なんらかのきっかけで「現代美術」に関心をもった人が、ある程度歴史的な理解を得たいと思ったときにひとまず手に取りやすい本――文庫や新書といった枠――というのは、近年殆どなかった。なかったと思う。思う、というのは、少し前から流行りだしたビジネスパーソン向けの現代アートガイドにおいて、どの程度まともな記述がなされてきたのか確認していないからだ*1

そんな中で2019年――奇しくも、4回目のあいちトリエンナーレをめぐって現代アートと社会とが、おそらくは不幸な仕方で様々な接点をもった2019年――に本書、山本浩貴『現代美術史 日本、欧米、トランスナショナル』が刊行されたのはまずもって喜ぶべきことだろう。個人的には「現代美術に興味あるんだけどなんかいい本ない?」というような問いにひとまず答えることがしやすくなったという部分も大きい。

しかしながら、さてはて、本書の語る歴史が、「これを抑えておけば万事オッケー」というような万遍ないものであるかというと必ずしもそうではない。それは著者も記すとおりである。

「はじめに」でも示唆した通り、本書の目的は現代美術の「正史」を編むことではありません。そもそもそのようなことが果たして可能であるのか、あるいは、それが必要なことであるのかさえ筆者には明言することができません。とはいえ、曲がりなりにも一冊の本を書き終えた今では、何らかの線に沿って現代美術が辿ってきた道のりを書き残すという作業には少なからぬ意義があると感じます。(おわりに・307頁) 

 歴史を書くことに孕まれる権力性を知る者ならば誰しも、「正史」なるものを書くことからは距離を置くだろう。その意味で、著者の態度はけっして逃げ腰のものではなく、誠実さによるものなのだと解してよい。それでは、本書の描く歴史はどのような仕方で遠心しており、その試みはいかなる意義を持ちうるだろうか。このエントリでは以上のような問いを念頭に置きつつ、内容に立ち入って感想を残すことよりも、本書の企図について少しばかりの考察をすることを目指してみよう。

 

誠実な歴史記述を目指すための方針には凡そふたつの流儀があると言ってよいだろう。一つは、価値中立的ないし無価値的であることを志向しながら出来る限りおおくの「事実」を記録しようとするもの。その極致はアーサー・ダントーの言う「理想的年代記」である。しかしながらそれは、思考実験としてしか存在しないような、殆ど不可能事でもある。*2もう一つは、ある価値にコミットすることを前提として開示し、ひとつの編集体として歴史を提示するものだ。ある意味、マックス・ヴェーバー的な「価値中立」を志向するものと言ってもよいかもしれない。

「正史」を回避し、遠心を試みる本書が立つのも後者の立場である。著者は力点を設定する。力点には著者がどのように「現代美術」というものを捉えているかが反映される。さらに、その重力によって語られる事象の惑星系が配置される。これにより、語られる「歴史」が象られることとなる。

さて、本書の力点。それは「芸術と社会」というテーマだと宣言される(ⅳ頁)。このテーマ設定の背景で、著者が現代美術の「現在地点」として見据えているのは、ソーシャリー・エンゲイジド・アート(Socially Engaged Art/以下SEA)だ。本書の語る歴史は、いくつもの迂回路を走らせているとはいえ、基本的にこの地点を目指して歩んでいく。その道筋は端的に「前衛美術からソーシャリー・エンゲイジド・アートへ」(ⅳ頁)と概略される。第一章のまずはじめにアーツ・アンド・クラフツを配する――教科書的な現代芸術史ではなかなか見ない――目次構成も、この問題設定につよく要請されたものだろう。日本の戦後美術を扱う第二部において結成年とは逆順に九州派・具体と並んでいるのも示唆的である。

版元の紹介ツイートで「現代アート入門」と記されていることからも分かるとおり、本書は入門書として位置づけられている。しかしながら、その門は「正門」だというわけでもない。もちろん、「正門」なんてありはしないという消極的理由がある。だがそれ以上に、その控えめな身振りとは裏腹に、著者はかなり積極的に、新しい門を開こうとしているように思う。

これは私見でしかないけれど、現代美術史を記述するにあたっってその中心とされることが多いのは、モダニズムだ。例えば、現在最もよく知られる美術批評家・美術史家によって編まれたArt Since 1900の副題に、「Modernism, Antimodernism, Postmodernism」とあることを参照してほしい。*3言うまでもなくモダニズム(もっと言えばクレメント・グリーンバーグ)との対峙の仕方によって一つの現代美術史を記述しうることは確かであり、それが正統と見做されることにもある程度頷ける。それだけの重要性は確かにある。

前衛を起点に置く本書もまたそうした類型の一変種なのだと捉えることもできようが、しかしそれは著者の期するところではないだろうし、そのような扱い方は本書の射程を理解することにはつながらない。本書は「芸術と社会」というテーマを設定することで、2019年という現在地点からモダニズム中心史観(という名前を仮に付けるとして)に対して、現代美術史のアップデートを求めている。

一応述べておけば、本書に書かれていることの多くは、門の内側――アート・ワールド――の人々にとってはおおよそ知られていることだろう。たぶん「うんうん」と思いながら読んだ人も少なくない。しかし、現代美術に体系的に触れたことのない読者にとって、本書に示されるようなパースペクティブを一挙に獲得することは容易でない。類書も少ない。その意味で、本書は確かに新しい門を開こうとしている。新書という親しみやすいかたちをとりながらも野心的な一冊なのである。願わくば、多くの読者が本書を手にとり、現代美術についての関心と理解を深めんことを。

 

最後にちょっと離れた私感を。

「芸術と社会」をテーマとし、前衛を起点とする本書を読了したときにひとつ思ったのは、ペーター・ビュルガーの仕事に今こそ注目すべきではないか、ということだった。ビュルガーは西ドイツ出身の文学者で、文学のみならず美術についても該博な著作を残している。日本語にも訳されている『アヴァンギャルドの理論』(1974)が代表作の一つだろうか。英語圏および日本の議論が中心的に紹介されている本書においてビュルガーは参照されていない様子だったが、本書の描くような歴史を再考する上でも、彼の提出する概念「歴史的アヴァンギャルド」において構想される「新しいタイプの社会参加芸術」なるものを参照することが役に立ちそうな気がする。それに、典型的にはあいちトリエンナーレをめぐって露呈するような「芸術と社会」の問題を考えるにあたっても使える部分が多いような予感がしている。*4

 

本書が脱西洋中心主義を志向したものだという点については触れ損ねてしまった。そのうち機会があれば追記修正をしよう。

 

 

 

 

*1:書いて気づいたけれどこれは確かめてみたほうがよいな、なんとなく倦厭しているようではよくないですね。でも『超訳』的なものであるとしたらそれはとても悲しいことだ。

*2:後に多少触れるが、これまた2019年に邦訳が出版されたハル・フォスター、ロザリンド・クラウスらによるArt Since 1900の分厚さをもってしても、やはり「もう一つ」の方針をとらざるをえないのだ。

*3:

Art Since 1900: Modernism * Antimodernism * Postmodernism

また、同書共著者のロザリンド・クラウスとイヴ=アラン・ボアによって提唱された「アンフォルム」――この概念は山本『現代美術史』では扱われていないが、現代美術史の記述としてある程度重要なものだろう――もまたモダニズム≒フォーマリズムの批判を念頭に置いていたことを想起してもよい。

*4:「気がする」「予感がしている」というのは、僕自身ビュルガーに関心を持ちつつ全然読めていないからです。勉強しよう。