凝るのもいいけれど
溜めてしまった家事をする。皿を洗い、洗濯ものを片付け、掃除機をかける。カレーをつくっている。
思うに、カレーは炒めものである。油に香辛料の旨味を抽出し、それを玉ねぎになじませていくあたりで工程の八割がたは尽きていると言っても言い過ぎではないだろう。実際には市販のルウを使ったから、だいぶ様子が違う。
以前南インドに行ったことがあって、それで人生変わったかというとそんなことはないわけだけれど、カレーをつくるのだけはうまくなったと思う。日本の街で食べるインド(・ネパール)料理店のカレーは北インド系のものが多いらしい。南インドのカレーはもっとさらりとしていて、スープに近いような感じだ。それを米やらなんやらと混ぜながら食べる。言ってみればねこまんま式だ。
その滞在のあいだ、もうそれはずっとカレーを食べ続ける生活だったけれど、一度もお腹を壊すことがなかったのは幸いであった。急にスパイス満載の料理を食べだしても、それを從容として受け容れるロバストネスが体にあるのだということ。カレーがおいしかったからかもしれない。
インドから帰国して、カレー作りに凝るようになった、ということはない。ルウを使わずスパイスを炒めるところからカレーを作ることもしてみたこともあるけれど、それはもっと後になっての話だ。でも、じゃあ、なんで先述したような具合で、ぼくはカレーを作るのがうまくなった、と言っているのか。
もちろん、おいしいカレー*1を食べて、カレーの「おいしい」についての見識が広がったこともあるけれど、いちばん大きいのは、適当でいい、と思えるようになったことだ。多少失敗してもいいや、ということでもある。別にそれまでだってきっちり作っていたわけではない。市販のルウは優秀で、何を入れても、どこかでとちったとしても、最終的にはたいていカレーが出来上がる。そしてそれはそれなりにおいしい。でも、何も考えずに適当に作ることと、「適当でいい」と思いながら適当に作ることは、やっぱりずいぶん違うようだ。これは、ぼくにとってのカレーというカテゴリが拡張されたためでもあるだろう。
ここで味噌汁の話をしよう。味噌汁に茗荷をいれたことはあるだろうか。ない?それではトマトは?僕は昨年まで試したこともなかった。でも、あるきっかけ*2を得てからやってみると、とてもおいしい味噌汁が出来上がった。その時点まで、味噌汁にトマトを入れることなんて思いつきもしなかった。それは僕にとってトマトという野菜が味噌汁の埒外にあったためだ。食わず嫌い、とは少し違う。ただ、それを知らなかったのだ。知らず知らず、食物や料理に対する感覚は保守化する。知らないことにも気付かないまま、ぼくらは同じ料理を食べ続ける。悪いことではない。それがおいしいのであれば。でも、ある時、ぼくらのカテゴリの外においしいものがあるのだと知ると、途端に豊かな世界がまだまだ広がっていることに気づく、ということがありうる。そしてその時、ぼくたちは、「味噌汁には何入れてもいいんや」と、適当になることができるのだ。
別に変なものを入れればいいということではない。闇の味噌汁をつくりたい人は、そうすればいいだろう。ぼくはおいしいものが食べたいなと思うから、新しい「おいしい」を時に探してみる、というだけの話だ。
きっとあなたにも好きな食べ物があるだろう。ぼくにもある。インドから帰って以来、カレーのことはもっと好きになった。適当につくれるようにもなったし、もっとおいしく感じるようにもなった。この世には、見知らぬ「おいしい」がまだまだたくさんあって、たぶん、もっと多くのものを好きなることができる。自分の手で、わりあい簡単に(高いコストをかけずとも)それを探していけるのだから、料理はいいもんだなと思う。ぼくたちはもっと適当になっていいのだ。
今日のカレーはおいしいだろうか。晩ごはんの時間が待ち遠しくなる。