屋上屋

屋上で小屋を建てている

あとがき

あとがきというものが好きだ。

例えばかっちりと書かれた学術書であっても、あとがきには著者の私性がほろほろとこぼれだしている。そのほろほろとした感じが好きなのだと思う。

今日は修士論文を提出してきた。出来がよいとは言いがたいものになってしまったので、これが受理されるかどうか、不安の日々はまだまだ続くのだけれど、ひとまず一つの区切りはついたことになる。

専攻や研究室の文化によって学位論文にあとがきを付すかどうかは違ってくるだろう。ぼくが所属しているところにあとがき文化はなかった。だからあとがきを書く必要はなかったんだけど、本文を書いているうち、なんだかうずうずしてきて、本文が完成するよりも前に、あとがきを書いてしまった。出来心。

提出した論文にはあとがきを載せていないので、代わりにここに置いておこうと思う。ぺらぺらと書いたそのままで、推敲とかはとくにしていないけれど、まあ、それもまたいいのだろう。なお、ぼくは荒川修作とマドリン・ギンズというふたりの芸術家のことを研究していた。

 

あとがき

ショートステイというかたちで三鷹天命反転住宅に滞在していたときにぼくたちの部屋を訪れてくれた友人は後にこう語ってくれた。「部屋が「生きろ」と言っていて辛かった」。彼女はうつ病を患っていた。時折「死にたい」とぼくに語っていた。

 

『建築する身体』の冒頭には次のような言葉が掲げてある。

生きつづけようと願い、生きつづけることができないできたものたちへ

そのためなおそう願いつづけているものたちへ

あるいは人間を超えていくものたちへ

荒川+ギンズからすれば、「死にたい」という感情を抱える彼女は対象外の存在なのかもしれない。天命反転住宅のあのカラフルで、すさまじく暴力的な部屋は、万人のためのものではないのかもしれない。

なんらかの「救い」を求めて荒川+ギンズの研究を始めた。つまりそれは、「解放」の願い。この世のしがらみから、制約から、ありとある不幸からの解放。

荒川はあるインタビューでこう言っている。

もっとはっきりいえば、全く別な、マチスとか、ああいう作家がもっと完全に主導権をもつような世界に僕たちはいかなくちゃいけないと思うんですよ。もっとおおらかで楽しくて美しい、そういうものの世界へいかなくちゃいけない。完全なハッピーエンドで終わる芸術しか必要のない世界をつくらなくちゃいけない。

 完全なハッピーエンド。ぼくはそれを見てみたかった。たぶん彼は、そこに辿り着く前にこの世を去ってしまった。しかしながら、その場所を、あるいは《空虚》を、垣間見ていたようには思う。

 この世からの解放。ネガティブな形では、それは何度も言われてきた。自死。たとえばエミール・シオラン。あるいは、ポジティブな形では、千年王国の到来。メシア的時間の受苦。しかしそれらは決して訪れることはない。あんまりだと思った。だからぼくは、もっと別の道を、この世にあってなおかつこの世から救われることを願った。荒川とギンズの行った道は、それを指し示しているように思えた。

 彼らは、この「私」というあり方を解体する。そのとき、「私」に課された必滅という宿命は転倒される。「私」というものがない生など考えられるだろうか?もしかすると、ある種の種においてはそれはこれまでにもあったものなのかもしれない。しかし人間という種にとっては?それはまさしく未踏のものであって、それゆえにこそ荒川+ギンズは、「人間を超えていくものたち」に向けてメッセージを発している。畢竟、彼らの要求は超人的なものである。超人。Übermensch。それはまさしくフリードリヒ・ニーチェが『ツァラストゥラはかく語りき』で提出した形象である。

 それゆえか――すぐれた思想家にあってはご多分に漏れず――荒川+ギンズの思想を受容することには苦しみが伴う。彼らの要求に応えることは、まさしく従来の人間というあり方をやめることであり、「私」でないものへと変身することだ。三鷹天命反転住宅は、暴力的な仕方でそれを突きつけるのかもしれない。冒頭に置いた彼女の言葉は、それをある意味真っ向から受け止めたものだ。

 ひとしきり荒川+ギンズの言説と作品に触れ、少しなりともそれを理解したいま、僕はなお荒川+ギンズに魅力を感じる。しかしその一方で、「それはぼくには無理だ」とも感じている。彼らはどこまでも人間のことを考えている。人間が、人間という制約から「解放」されることを目指している。そのための方法を、様々な形で模索している。しかし、どうやらぼくは人間であり続けたいらしい。この「私」として生き、この「私」として「完全なハッピーエンド」へと到達したいのだ。だから、荒川+ギンズの行った道は、ぼくの行くべき道ではなくなってしまった。それは挫折なのかもしれない。挫折であってもいいのだと思う。少なくともまだ、ぼくはぼくとして生きている。

「死なない」ことは重要事ではない。むしろ「生きていたい」と思えることのほうが大事なのだと思う。少なくともぼくの行く先はそちらにある。それがはっきりしただけでも、荒川+ギンズを研究したことは、ぼくの人生にとって意味のあることだったと言えるだろう。

 

指導教員の〇〇先生に深謝を。迷惑をかけっぱなしの不出来な生徒にも関わらず、お忙しい中さまざまなご指摘をいただいた。この論文が書き終わったのは、ひとえに〇〇先生のご指導の賜である。

また、家族にも謝意を示したい。実家を離れ、人より1年多くかけながらも修士論文を書き上げることができたのは、様々な面での支援のおかげだ。あなたたちなしにぼくはこの世にない。ありがとう。

最後に、あとがきに登場した「彼女」にも「ありがとう」を。天命反転住宅を訪れたあなたのそのコメントは、荒川+ギンズを考えるにあたって重要な示唆を与えてくれた。あなたが「死にたい」と言わずにすむ世界を、ぼくは願っている。また散歩に出掛けましょう。

(了) 

 

 

建築する身体―人間を超えていくために