屋上屋

屋上で小屋を建てている

日記 20210425

人通りが少なくなった商店街。「CLOSED」の札がかけられた店舗があり、「臨時休業」の張り紙がしてある。そのような店舗が一つならずあり、電気の消えた街並みは薄暗く、月が見慣れない明るさで浮かんでいた。こうして街は死んでいくのだなということ、そしてまた、こうして僕たちは死んでいくのだなということ、を軽率に思う。

 

社会のどうしようもなさに対して気炎を吐くような元気はとくにないし、明るい未来なんてないんだぜって思ってしまっている今日この頃ですが、そのひとつの理由は、社会に対して働きかけるための正攻法についてあんまり知らないからなんだ、と最近気づいた。まっとうな方法、と言い換えてもいいかもしれない。「まっとうな」という言葉には規範性がつきまとってちょっとヤな感じではあるけれど、現にこの社会にはなんらかのゲームの規則があるわけだから、内的な変革(あるいはサバイブ)を目指すにせよ、ゲームそのものを書き換えてしまうことを目論むにせよ、現下の規則に対してより「まっとうな」取り組み方、というのがあるのだと思う。法律を上手に使うとか、そういうことだ、たぶん。

こんなことを考えている理由のひとつには最近ヤマザキOKコンピュータ『くそつまらない未来を変えられるかもしれない投資の話』(タバブックス、2020)がある。去年結構売れてたので、読んだ人も多いかもしれない。同書では、生まれたときからグローバル資本主義大勝利なこの世界において、自分や、自分の周りの人々が、もうすこし豊かに暮らすための方法として、「投資」という手段が紹介されている。豊かに、といっても、投資によって資産を形成してお金持ちになる、ということではなくて、考えなしに銀行に貯金して、自分のお金をシステムの運用の原資にするよりは、自分の意思をお金に載せて運用することで、経済に対してささやかながら意志を表明すること、それによって少しずつ社会に働きかけていくこと、に主眼が置かれている。経済のゲームにビルトインされている「投資」という手段をもう少し自分たちのために使おうぜ、という主張には、結局のところ零細個人投資家がいくらか集まったくらいでは何も変わらないのだろうな、という悲観的な印象はありつつも、「その手もありますなあ」という気持ちになった。

もう少し強い感銘を受けたのが、天野正子『「生活者」とはだれか――自律的市民像の系譜』(中央公論新社、1996年)。この本は、「生活者」という言葉を鍵にして、おおむね戦後日本の草の根的市民運動史を描いたもので、僕はとりわけ、今なお存在する生協組織である「生活クラブ」についての記述を面白く読んだ。公害などの問題が顕在化し、日々口にする食品の安全性であったり生活環境への関心が高まっていく中で、主に食品の共同購入活動を中心とする生協組織が結成されていく。「生活クラブ」の活動はそれにとどまらない。とりわけハッとさせられたのは、地方議会へ自分たちの代表を送り込もうとする「代理人運動」のくだりだった。食品にせよ政治にせよ、いずれも自分たちの生活基盤であることには変わりがない。であるならば、意見を表明したり、プロセスを監視するために、選挙を経て議会に代理人を送り込むことは、ほんとに、笑っちゃうくらい「まっとうな」やり方である。選挙によって選出される議員を通して、政治に参加する。これは信じられないくらいまっとうなやり方だけれど、あまりにもその実感が持てずにいて、手触りを忘れてしまっていた。もうほんと「その手があったか」と思いましたね。都議会選とかで見る「生活者ネットワーク」、謎の泡沫団体と思っていたのだけれど、上の「生活クラブ」由来の団体だと知れたのもよかった。

 

この2冊はいわばゲームの規則に則った「正攻法」だ。じゃあゲームチェンジャーにとっての「正攻法」は…?というと、こっちはまだよくわからない。どうやら外山恒一の新刊が面白そうなので、それを読んでみようかな、と思っています*1

 

 

 

政治活動入門

政治活動入門

 

 

 

*1:ちょっと前の記事になるけれど、HAGAZINEでの逆巻しとねと外山恒一の対談が面白かった。

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