屋上屋

屋上で小屋を建てている

日記 20210503

僕は選ぶ。僕は選んだ。僕は選ぶだろう。僕は。

 

一九五七年、人間が作った地球生れのある物体が宇宙めがけて打ち上げられた。この物体は数週間、地球の周囲を廻った。そしてその間、太陽や月やその他の星などの天体を回転させ動かし続けるのと同じ引力の法則にしたがったのである。たしかに、この人工衛星は月でも星でもなく、また、私たち地上の時間に拘束されている死すべき者から見れば無窮としかいいようのない時間、円を描き続けられる天体でもなかった。しかし、この物体はしばらくの間は、ともかく天空に留まることができたのであり、まるで一時、天体の崇高な仲間として迎え入れられたのかのように、天体の近くに留まり、円を描いたのである。*1

 
かつて、あるいはいつか舞った花びらのように。

 

触れるたび土は悲しくよみがえり甦りあらゆる春を畏れよ*2

 
——あらかじめ失われたこの世界で。

 


剥製の群れの中でめざめること
空港がゆっくりと色づいていくこと
語らなければ
それらたくさんの喪失について*3

 

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生きていくことは選択の連続であるようであり、実際には選択の埒外で決定される事柄によってずいぶんと左右されるものだ。僕が選んだ<今ここ>は、僕が選ばなかったそれぞれの<今ここ>ではないものとして認識することもできるが、その外延にはありえることのなかった<今ここ>があるのであり、それらは<かつて、そこ>として言い表すことさえも忘却されてしまっている。僕が認識することができるのは僕が認識する限りにおいてのこの世界のことであり、僕が認識しえない部分のこの世界について僕は認識することはできず<今ここ>ではひとときたりともありえないそうしたいくつもの時空間については、<かつて、そこ>として想起することでしか把握することができないというのに。実際にはありなえかったものたちをさえ今ふたたび喪失する、あらかじめ失われていた喪失について。あらかじめ、あらかじめ定められていた忘却、外延の外側へ。

*

失われたものを惜しみ、悼むのは我々の情緒の典型的な一面だ。儚いものを愛で、夭逝した詩人を追憶し、散りゆく桜に思いを重ねる。ある春の日僕らは空のほうを見上げ、ひらりひらりと宙を舞う花びらを見ている。ここで情緒の機軸を成しているのは、失われたものごとに対する感覚ではなく、「失う」という動詞に刻まれた、瞬間と永遠が重なり合う特異な世界のありようの感受なのだと思う。失われゆくものは美しい。時よ止まれ、と願わずとも、しばしばそれは僕たちの感官に永遠の印象を残す。花びらは散ってゆく。散ってしまえば地面に降り積もり、踏まれ泥水に沈み土に還っていく。地球の重みに制約され地を這い生きる者としてはその姿のほうが自らの身によっぽど近しいはずなのに、我々が好むのはひらりひらりと宙を舞う花びらである。あるいはまたその引き裂かれた遠さのゆえにこそ、一瞬なりとも重力から自由であるかのように空を舞う花びらが僕たちを強く引き付けるのかもしれない。飛翔への予感。ふと重力がゆるむような、恩寵の先触れ。地にありて空を見上げるこの身は、地面のうえで腐ってゆく花びらのことを忘れたまま今年の春を過ぎ越してしまう。この春を思い出すこともなく、この花びらを思い出すこともなくなるだろう。

*
しかしまた忘れることは僕たちにとっての常態であったはずだ。今ここで見たもの聞いたもの、そのすべてを記憶しておくことは能わず、確かに構築したはずの現在がしずかに解けていく。いついかなる時も世界はその相貌を喪失し、混沌へと落ち込んでいく。我々はここで「Of course all life is a process of breaking down 言うまでなく、すべて人生とは崩壊の過程のことだ」というフィッツジェラルドの言葉を思い起こす。我々の生は不可逆的に崩壊へと向かっていく。我々は天上の神々でもなければ天使的な存在でもない。老い、老いさらばえ、最後には意識もばらばらになってしまって、死んでいく。君も知る通りだろう。地上に生きるものにとっては重力と同じくらいに所与の定め、言うまでもなく、すべて人生とは崩壊の過程のことだ。重力の重荷を背負いながら、我々はみな崩壊の只中に生きる。

*

我々の生が現にそのようなものであるということを否定することはできない。おそらくは救いが訪れることもない。それはあまりにも悲しい現実である。私は悲嘆する。私はこれまで失ってきたさまざまのもののことを思い、これから失っていくさまざまのものを思う。そしてまた、私は悲嘆する。世界がこれまでに失ってきたもの、これからの崩壊において失われてしまうもののことを思う。それらすべての、たくさんの喪失について。救いはないのか。救いはないのか。救いはないのか。僕たちはあまりにもたくさんのものを失ってきた。僕たちは。僕は選び、君は選び、僕たちは選び、また誰か知らぬ人は選び、あるいは誰の選択にもよらず、おおくのものが滅び、絶滅し、二度と戻らぬものとなった。繰り返しすら許されない、絶対不可逆の道行き。帰る場所は既になくなってしまった、いや「帰る」という言葉さえも崩壊してしまっている!!!ここにおいて我々になしうるのは歩いていくこと、ただそれだけなのか。すべてが崩れ去っていく中を、おぼつかない足取りで諾々と進んでいく、我々に許されているのはそれだけなのか。少しばかりの諦念を滲ませながら。

そうして歩を速めたとき、再び私は失ってしまった大切な数々を思った。あらかじめ失うであろう未来のことを思った。自らの中にそれが切り離されたときの空洞があり、輪郭だけは知ることはできるが、それがどのような色を、どのような姿をしていたのか、私は思い出すことができない。私はすこし悲しくなって、立ち止まる。そこは桜並木の真ん中で、逆巻く風に花びらが舞っていた。

*
立ち止まること、きっとそれは何らかの抗いでありうる。救いも許しもないならば、せめてもの祈りとしての抗いを。果たされない約束、いずれは落ちる花びら。避けがたい崩壊に抗する闘い。人はときにそれを「芸術」と呼ぶ。

 

芸術作品は、不連続的瞬間へのほどけ、カオス(≠カオスモス)への不可逆的な落下、不活性で粗野な「現にこうである」への還元に対して、それに尽きないもの、つまり「消尽しないもの」を、果たされるかどうかとは別に、「約束」(ロナルド・ボーグ)する。*4

 

*1:ハンナ・アーレント『人間の条件』

*2:堂園昌彦「愛しい人たちよ、それぞれの町に集まり、本を交換しながら暮らしてください」『やがて秋茄子へと到る』

*3:

www.evernote.com

*4:

小倉拓也・講演「ドゥルーズの芸術哲学―感覚・記念碑・可能」(著書『カオスに抗する闘いードゥルーズ・精神分析・現象学』より) - YouTube