屋上屋

屋上で小屋を建てている

遺失物

浪人生だったころ住んでいたのは地方のある町であり、その町はお世辞にも栄えているとは言えなかった。大手の予備校なんてものもあるわけなくて、ぼくは片道1時間強のあいだ高速バスに揺られながら隣県の中核都市にある予備校に通っていた。浪人生の時間割はぎゅうぎゅうづめに埋まるようなものでもなく、授業が終われば街を歩き回っていた。

予備校のある街には大きな本屋があった。どれくらいの規模かといえば、洋書コーナーがあるくらい、と言えば伝わるだろうか。英語やフランス語でタイトルの記される背表紙が並ぶ、その棚の合間をゆっくりと歩く、それは間違いなくぼくにとって文化的な出来事だった、と思う。

その本屋は(たぶん)半年に一回くらい、洋書のセールをやっていた。(たぶん)というのは、その本屋に通っていたのは1年間に過ぎず、そのうち2回そのセールが開催されているのを観測したに過ぎないから。ワゴンに入ったペーパーバックが、たしか1冊800円くらいになっていた。英語の勉強になりそうだし、ちょっと挑戦してみようかな、と思って、ある日、ワゴンの中からカズオ・イシグロの Never Let Me Go を購入した。イシグロのことはよく知らなかった*1。順当に言ってワナビ的背伸びではあったけれどともかくも、ぼくはその日から、洋書を読むということを始めたのだった。

Never Let Me Go を読んでいたのは、もっぱら行き帰りの高速バスに乗っているあいだだった。知っているだろうか、昼過ぎに乗る高速バスは尋常ではない眠気を誘う。それに英語が特別得意だというわけでもなかったから、読み進むスピードは冬眠中のクマのようなものだった。それでもしばらく読み続けていたのだから、浪人生というのは勤勉なものだと思う。

ところが、ある日、ぼくは唐突にこの本をなくした。大方バスの座席ポケットに置いてきたのだろうと思ったし、本当はバスの運行会社に問い合わせれば見つかったのかもしれないけれど、ぼくはそうすることをしないまま、いつしか大学受験が終わって高速バスに乗ることもなくなり、あの大きな本屋がある街とも疎遠になってしまった。

読んだことのある方ならご存じかと思うが、この小説は、中盤におおきな転換がある(らしい)。遺失した時点で、僕はそこまで読み進められていなかった。僕が読んでいた Never Let Me Go は、それなりの不穏さはありつつも、比較的に穏やかな学園ものの物語だった――後からあらすじを知ったときの驚き!

 

*

 

結局、それ以来 Never Let Me Go あるいは『わたしを離さないで』の続きを読むことはできていない。カズオ・イシグロの名を見かけるたびに、ある日遺失した一冊の本のことを思い出す。おそらくは1年ほど保管され、その後処分されてしまったであろう、一冊のペーパーバック。今なおそれはある種の宿題として、再びページが開かれるその日を待っている。車窓から射す穏やかな光に照らされながら。

 

 

 

 

Never Let Me Go

Never Let Me Go

 

 

*1:いちおう注記しておくと、イシグロは2005年にブッカー賞を受賞しているわけで、当時すでに世界的な名声を獲得していたはずだ。でも、ブッカー賞のことも知らない田舎の少年にとっては、よく知らない、一人の外国の作家に過ぎなかった。