屋上屋

屋上で小屋を建てている

道端に座り込むこと

都市的な空間に出た。街から人の姿が消えていたのはもう昔々のこと。今日の街には人の姿が溢れていて、まるで大昔に戻ったみたいだった。それでも見なくなった姿というのもあるな、とふと気づく。路石に、道端に、座り込んでいる人々の姿だ。

とはいえ、ここで思い起こしているのは、たとえば酒を飲みすぎて嘔吐の淵に座り込んでいるような人々のことではない。

まだ国境を跨いで旅行に出かけることができたころ、海外からやってきた旅行者たち、ユニクロ無印良品や、あるいは高級ブランドの紙袋をたくさん手に持って、道端に座り込んでいた旅行者たちの姿である。

彼らがふだん暮らしている国々の都市の事情はよく知らない。そこでは道端に座り込むことは当たり前に行われるのかもしれないし、そうではないのかもしれない。ただ、現在の東京という街には、一息ついて休むことができるようなベンチやフリースペースのような場所が極めて少ないということはこの都市に暮らしていてもしばしば感じる。だから、道端に座り込むこともまったく不思議な話ではないと思う。一方で、この都市は基本的に、道端に座り込むという振る舞いを許容していない、という現実——少なくとも僕にとってそのように現れるところの、現実——がある。

たぶん以前は、といってもどれくらい昔のことなのか、これは妄想しているだけだから事実としてどうだったかは分からないのだけれど、たぶん以前は、都市にもっと隙間のようなものがあって、座り込むのに向いているような道端というものもあったんじゃないか、ということを考える。ホームレスを排除するためか、あるいは、収益性のない空地を許さない資本の運動のためか、それらの場所は失われていったのだろうか、ということを考える。こういう考えを根拠づけるようなものを僕は全然持っていないので、そういう架空の歴史は措いておくにしても、いまの東京という都市で、道端に座り込むという振舞いはあまり一般的でないということは確かだろう。たとえば僕が家の前の道に座り込んでいたとしたら、道行く人々は僕のことを奇異なものを見るような目で、あるいは白い目で眺めることだろう。そして、その目は、僕の目でもあるかもしれない。

道端に座り込む旅行者たち、愛すべき路上スクウォッターたち、彼らの暮らす国では、そんな振舞いが許容されているのだろうか。もしそうだとすれば、それはとても成熟した都市の使い方だと思う。

都市は我々のものであり、また我々のものではない。

我々は都市の一部に場所を占めていて、そこを「住みこなす」ことさえしている。しかしながらそれでもなお、我々が生きるその場所は多くの場合借り物に過ぎず、資本なり行政なりが正当な手続きを踏めば、すごすごと立ち去らなければならなくなることも多いだろう(あるいは、防疫のため封鎖されていた間の都市のことを思い出してほしい)。

我々が、この重くてかさばる身体というものを必須の条件として与えられたうえで、きわめて物理的な存在としてこの都市に生き、その空間の一部を占めているということ。それさえも、心配なく保証されたものではないということ。「都市への権利」は、意外と簡単に奪われてしまうものであるということ。

姿を消した路上スクウォッターたち。彼らのことを思い起こしてみると、そんなことを意識せざるをえなかった。もし、今、改めて「都市への権利」というものを考えてみようとするならば、まずは、道端に座り込むことから始めなければならないのかもしれない。