屋上屋

屋上で小屋を建てている

西藤定『蓮池譜』

いただきものの感想を。

 

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青嵐 鰯が飛んでいるようなにおいの町に平日もいる(170)

 

ただ地上で佇んでいるときにもからだには1気圧の力がかかっていて、それで私たちが潰れてしまうことがないのは、体内に存在する空気が同じ力で押し返しているから、らしい。力と力のつり合い。ただそのまま居るということだけにも「努力」が必要になるということ。

そういう些細で繊細な均衡のことはいつでも忘れっぱなしにしてしまうし、もし均衡が崩れるその度ごとに調整が必要であったならば、私たちはずっとそれにかかりきりになってしまうだろう。私たちの生体の機構は本当によくできている。

でも時として、そう、たとえば潮風を浴びたときなんかには、からだにまとわりつく大気の流れが確かに「重さ」や「手ごたえ」——これらは気圧とはまた異なるものだけれど——のようなものを押し付けてくるような感じがして、そういうときには、今その瞬間も続いている力と力のせめぎあいのことを思いだす。

大気の力に抵抗しながら今ここに立っている(あるいは寝そべっている)ということ、あるいは私たちがじぶんの身に向けられた諸力に対して適切な均衡を調整し続けながら生きていること。

こうした事態にあくまでフラットな目を向けているのが、この歌集、西藤定『蓮池譜』なのだと思う。

次の一首にはそうした感覚がつよく反映されていると言えるだろう。

間が悪く手で押し返す自動ドアその手ごたえで「やれます」という(38)

前を行く人が行ったあと、自分が通ろうとした頃には自動ドアが閉まり始めていて、手で押し返しながら身を滑り込ませる。閉まろうとしている自動ドアの手ごたえは案外重く、それを押し返す手にもぐっと力が入る。もちろんドアのほうにも安全機構が仕込まれているので、押し返した時点でドアはまた開いていくのだけれど、手には意外と重みのある手ごたえが残る。おまけに、「締め出されかけた」というような感触の後味の悪さ(僕が経験したことのある自動ドアの手ごたえというのはこんな具合で、この前提で話を進める)。
この歌において発される「やれます」という言葉はどうやら、意欲や元気といったものとはすこしばかり遠い位置にありそうだ。そこそこのプレッシャーを感じさせられながらしかし、「やれます」という返事以外は予定されていないような、そんな状況が想像できる。

自動ドアは閉じ切っていない=限界崖っぷちとまではいかないものの、平均台の上くらいは歩いていそうな、そんな日常茶飯の感覚は、たとえば仕事のことを詠んだであろう次の歌にもみられるように思う。

乾電池腹からこぼしつつ進む 燃えてもまだ旨いプロジェクト(185)

ロボットというよりは機械仕掛けの人形が、腹の電池ケースからぽろぽろと乾電池を落としながらも進むことをやめようとしない光景が浮かぶ。終盤になってからの仕様変更、思いがけない考慮漏れの発覚、突然の人員転換……さまざまな理由でプロジェクトは火を噴くことがあるけれど、炎上したからといってそれが必ずしも中止されるわけではないし、まだまだ採算はとれるということで、燃え上がった現場がそのまま継続されることはままあるだろう。もちろん当該のメンバーからしたら極めて災難な事態であって、それこそ乾電池を腹からこぼしながら働かなければならなくなったりするわけですが。浮かぶ情景はユーモラスでありつつも、確かな悲哀が共感を誘っている。

このような生きていくことの大変さ、苦しみのようなものは、次の歌の「霧雨」と似たような「こわさ」なのだと見做すことができるかもしれない。

うしろから前から襲う霧雨の理不尽でないこわさを思う(188)

とはいえ、この歌集がすごく後ろ向きなものなのかというと、そういうわけではない。さまざまな圧力や苦しみを感じながらも、むしろ著者は生に対してあくまで意欲的だ。
たとえば先ほどの引いた歌と同じ連作「行けよ」に含まれる次の歌は、先の歌とすこし響きながら、あくまで生きることの楽しみに向かう姿勢がうかがえる。

空き腹を油であたためただけの心とからだでも会いに行く(186)

あるいは、次の歌こそが、本書のトーンの機軸となっていると言えるかもしれない。

生きたいしそのうえ生き延びたいからそこかしこにお祭りを注ぐ(139)

本書には音楽、ゲーム、Vtuberなど、さまざまなものを扱った題詠が含まれており、そのひとつひとつが著者にとって切実な「お祭り」なのだろうと思う。とりわけ、私が著者とおなじくトロンボーンを演奏することもあって、音楽関連の歌に興味をひかれた。

腹筋のひとつうしろの壁で吹くトロンボーンは平らかな湖(27)

トロンボーンという楽器は和音係のような役割を負うことも多いのだが、その場合ロングトーン、すなわち安定した伸ばしの音をぶれることなく奏することが求められる。吹奏楽器においてこれはなかなか修練が必要なことで、減っていく肺の中の空気に応じて筋肉の使い方を変え、一定の圧力、一定の息の流れを維持する必要がある。そうして初めて、平らかな湖のような穏やかな長音が達成されるわけで、静謐な湖面の裏に、序盤で述べたような力の均衡を読み取ることができるように思う。
楽器を吹くのはそういうわけでとっても難しかったり、大変なことの連続ではあるのだけれど、ではなんでアマチュアであろうと音楽をやるのかといえば、それは間違いなく「楽しい」からだろう。

星条旗よ永遠なれ》で体力を使い尽くせばコンサートなり(29)

星条旗よ永遠なれ」は、ジョン=フィリップ・スーザ作曲のマーチで彼の代表曲。吹奏楽曲の中で最も知られているマーチと言ってもよく、プロからアマまで様々な吹奏楽団の演奏会において定番のアンコールピースでもある。軽快な前半部からPicc.ソロが印象的なトリオを経て、まさに大団円といった様子の後半部がやってくるという構成だが、奏者としては短い曲ながらけっこう体力が必要な曲で、演奏会のメインになる大曲を演奏した後、さらに「星条旗」を演奏するともうへとへとになってしまう。しかしこの「へとへと」さこそ演奏会のカタルシスでもあって、その感覚がやみつきになってしまう人も多くいるように思う。

——散漫になってきてしまっているので、最後に一首引いて終わろう。

前屈を妨げる肉 まだつよく醜くなれる。わたしはなれる(176)

思わず自分のおなかを見つめてしまう。本書の中で句点が用いられているのはこの一首だけで、決意と断定の力強さを聞き取ることができる。様々なコンテンツを楽しみながら、日々晒される圧力となんとか均衡を保っていこうとする努力、その姿勢を好ましく、頼もしく思う。どうぞお達者で。

 

日記 2021-10-25

シャワーの湯温を1℃上げる。 感覚は変化に対して鋭敏で、小さな違いであるようでも湯ははっきりと熱くなるのを感じる。 一方ではっきりしない変化というものもあって、その中では感覚はうまく働かず、むしろ鈍麻していくのだろう。

大きな両手鍋を買ったのでスープを仕込む。玉ねぎを切りながら涙を流し、「泣き叫びながら生きていくのだよ」などと思う。 じゃがいもの芽をえぐりとりながら思うことは昔住んでいた部屋のことで、今住んでいる場所から比較的に近いところにあるからたまに様子を見に行くのだけれど、たぶん今でも誰かが住んでいる。 古いアパートだったからお湯の栓をひねれば触れば火傷するような熱湯が出てきたはずだ。シャワーを浴びるときにはいい具合に水と混ぜる必要があったような気がする。配分を探りながら適温を探り当てたときにはそれが適温だと分かること。そこに辿り着くまでにからだが冷え切ってしまうこともあって、そのときの適温はすこし熱めだったはずだ。

季節の終わりはいつの間にかやってきているものだが、季節の始まりはきっぱりと感覚される。 寒くなると心も体もふさぎこんでしまいがちになるのだけれど、火に薪を絶やさぬようにしたいと思う。

日記 20210710

early summer light

 

季節はめぐり、夏の光をもとめて散歩へ。

 

 

 

 

涼しさがほしくなって、晩ごはんに蕎麦をたぐりにいく。

同行人が「蕎麦は季節ごとに食べたくなるのですごい」と言っていたので、今日食べたのは初夏の蕎麦。

帰宅したならば雷雨がやってくる。梅雨が終わりに近づけば強い雨が降るのだったな、と毎年のように思い出す。

 

われらみなbotのようなもの

 

完全ではないbotを作った/ていた/ている話。

なんとなく語彙から予想できるとおり、上のツイートはドゥルーズ(=ガタリ)のテキストから抽出した語句を適当に構成して作成したもので、「適当に構成する」の部分を、形態素解析マルコフ連鎖による文章生成という形でやってみている(たぶん)。しばらく前にこういうのが流行った時期があったような気がする(今でも @shuumai とかちょいちょい流れてくるし、3 legged oauth で権限を渡すと、自分自身のツイートを読み込んで文章を作ってくれる、みたいなWebアプリケーションもたまに見かける気がします)。つまりは、この世界にまたひとつ屋上屋を架している。

 

実装言語はkotlinで、形態素解析にはkuromoji、ツイートまわりにはTwitter4Jを使った。

github.com

twitter4j.org

さすがにいまさらTwitter4Jで実装するのも…というところはありつつ、他で試した方法でいまいちうまくツイートできなかったので、とりあえずのところ許されたい。

kuromojiはとびきり便利で、たとえこちらが形態素解析のことを深く理解できていないとしても、読ませた語句を適当に分割してくれる。さすがに全部完璧にとはいかないので、手で修正すべき部分も出てくるけれど、さらっと遊んでみる分には十分すぎる。

文章生成に関しては、巷間にあまたある(本当にめちゃめちゃ出てくる)実装を参考にしながらの手組みだが、やっていることは単純で、形態素解析の結果出てくる形態素を3つずつ組にして集めていき、適当な一組を始点と決めたら、あとはその組の3番目の形態素が1番目に来る組を探してきて繋げる、ということを繰り返しているのみ。

形態素を3つずつ組にして集める、とはどのようなことか。たとえば、「無色の緑色の考えが猛烈に眠る」という文を例にとってみよう。この文章をkuromojiの形態素解析にかけると、「無色|の|緑色|の|考え|が|猛烈|に|眠る」と分割される。頭から3つずつ組にしてみるならば、「(無色, の, 緑色), (の, 緑色, の), (緑色, の, 考え), (の, 考え, が), (考え, が, 猛烈), (が, 猛烈, に), (猛烈, に, 眠る)」というリストが出来上がる。このリストだけから文章が出来上がることを想像するのは(元の文章の再現以外には)難しいが、実際にはずっとたくさんの文章を読ませているわけだからこのリストは遥かに長いものとなり、ある組で3番目の語が別の組で1番目の語となっているような組み合わせもある程度生まれてくることとなる。であるから、その度ごとに組を適当に繋げていく、というのもある程度できるわけだ。

こんなシンプルな操作でも、なんとなく文章らしいものが出来上がる(こともある)のは、やってみると素朴に驚いてしまう。

なお、これを本当にマルコフ連鎖と言っていいかについてはあまり自信がないので、曖昧にしておきたい。

実装に関して、よく参照したのは次のふたつの記事。挙げておく。

theray0410.hatenablog.com

qiita.com

 

マルコフ連鎖と言っていいかについてはあまり自信がない」と言った舌の根が乾かぬうちにその話題を引っ張るのだけれど、ドゥルーズマルコフ連鎖には、浅からぬ関係があるらしい。日本語でもいくつか論文が見つかる、たとえば次。

ci.nii.ac.jp

ここで小倉は、「未来における振る舞いが現在の値によって決定される確率過程」とされるマルコフ連鎖という概念が、言語論をはじめとするドゥルーズの哲学においてどのように展開されたかを跡付けていき、同じく(あるいは先んじて)マルコフ連鎖を取り上げたラカンとの比較を交えながら、「その部分的依存性ゆえにカオスに陥ることなく、創造的な意味を生む」「連鎖のその都度に意味が変化していくようなシステム」として要約する。 ここで言語とは、かなり無軌道に展開しうるものでありながら、その実最低限のミニマルな秩序によって整流されるものと見做されていると言ってよいだろう。

上で作ってみたようなリストを思い出し、引き付けて考えてみるならば、リストが前提としてあり、そのいずれの組が選択されていくかの重みづけが無意識、情動、その他の働きによって都度変わっていくなかで、場当たり的に連ねられていくもの、それが言語である、ということになるだろうか。念のため付言しておかねばならないのは、このリスト自体も安定したものではなく、日々学習する中で項目が増減したり重みづけが変わったりするものであるし、あるいは、事故による脳の損傷、痴呆などの病による記憶の解けなどにより、破壊されていくものでもある。カトリーヌ・マラブーの言う「破壊的可塑性」を思い起こしてみてもよい。

 

こうしたことを考えていると、我々の日ごろの発話というのもまた、有限化された言語空間において行われているのだろうというところに(当然ながら)思い至る。自分を取り巻く言語空間というものは、意識していないと信じがたいほどの速さで閉じていくような気がする。そのとき言語は痩せ衰えてしまうということが、とてもよくわかる気がする。

ところで、徹底された貧しさ、ユクスキュルのダニのような世界貧困性についてドゥルーズは高く評価している。そのような貧しさと、紋切型しか存在しないような言語空間の貧しさは、多少似ているようでおそらく全然異なるもののはずだ。でも、それをうまく言葉にすることはできなかった。宿題。

 

 

 

 

 

日記 20210528 Oisix雑感

Oisixを試してみた。個別にプラ袋に梱包され、土もきれいに取り除かれた野菜が届き、なんだかぞわぞわとした違和感がある。お試しセットは献立単位のキットになっていたので、食材にレシピがついてくる。ところどころの工程に「お手伝いポイント」の表示があって、つまり、刃物や火を使わない簡単な作業なのでお子さんにお手伝いをしてみてもらいましょう、ということだ。過保護な感じもするし、運営企業からしたらリスク回避のためにはそれくらいしか推奨できない、ということでもあるだろう。このくらいの判断は親が自分でできてほしいところなのでは、と思わなくもないけれど、料理という身のこなしが衰退し始めて久しいので、「これは子供に任せてもいいかな」という判断をするのも、親にとっては難しくなってきているのかもしれない。核家族だったらなおさらそうだろうと思う。人類もよく子を産み育ててきたよなあ、と急に遠い目になってしまう。ずーっと時が過ぎたあと、最後の人類は料理をするだろうか。

ちなみに、Oisixの運営企業の正式名称は「オイシックス・ラ・大地株式会社」とのことです。「ラ・大地」。