日記 20210503
僕は選ぶ。僕は選んだ。僕は選ぶだろう。僕は。
一九五七年、人間が作った地球生れのある物体が宇宙めがけて打ち上げられた。この物体は数週間、地球の周囲を廻った。そしてその間、太陽や月やその他の星などの天体を回転させ動かし続けるのと同じ引力の法則にしたがったのである。たしかに、この人工衛星は月でも星でもなく、また、私たち地上の時間に拘束されている死すべき者から見れば無窮としかいいようのない時間、円を描き続けられる天体でもなかった。しかし、この物体はしばらくの間は、ともかく天空に留まることができたのであり、まるで一時、天体の崇高な仲間として迎え入れられたのかのように、天体の近くに留まり、円を描いたのである。*1
かつて、あるいはいつか舞った花びらのように。
触れるたび土は悲しくよみがえり甦りあらゆる春を畏れよ*2
——あらかじめ失われたこの世界で。
朝
剥製の群れの中でめざめること
空港がゆっくりと色づいていくこと
語らなければ
それらたくさんの喪失について*3
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生きていくことは選択の連続であるようであり、実際には選択の埒外で決定される事柄によってずいぶんと左右されるものだ。僕が選んだ<今ここ>は、僕が選ばなかったそれぞれの<今ここ>ではないものとして認識することもできるが、その外延にはありえることのなかった<今ここ>があるのであり、それらは<かつて、そこ>として言い表すことさえも忘却されてしまっている。僕が認識することができるのは僕が認識する限りにおいてのこの世界のことであり、僕が認識しえない部分のこの世界について僕は認識することはできず<今ここ>ではひとときたりともありえないそうしたいくつもの時空間については、<かつて、そこ>として想起することでしか把握することができないというのに。実際にはありなえかったものたちをさえ今ふたたび喪失する、あらかじめ失われていた喪失について。あらかじめ、あらかじめ定められていた忘却、外延の外側へ。
*
失われたものを惜しみ、悼むのは我々の情緒の典型的な一面だ。儚いものを愛で、夭逝した詩人を追憶し、散りゆく桜に思いを重ねる。ある春の日僕らは空のほうを見上げ、ひらりひらりと宙を舞う花びらを見ている。ここで情緒の機軸を成しているのは、失われたものごとに対する感覚ではなく、「失う」という動詞に刻まれた、瞬間と永遠が重なり合う特異な世界のありようの感受なのだと思う。失われゆくものは美しい。時よ止まれ、と願わずとも、しばしばそれは僕たちの感官に永遠の印象を残す。花びらは散ってゆく。散ってしまえば地面に降り積もり、踏まれ泥水に沈み土に還っていく。地球の重みに制約され地を這い生きる者としてはその姿のほうが自らの身によっぽど近しいはずなのに、我々が好むのはひらりひらりと宙を舞う花びらである。あるいはまたその引き裂かれた遠さのゆえにこそ、一瞬なりとも重力から自由であるかのように空を舞う花びらが僕たちを強く引き付けるのかもしれない。飛翔への予感。ふと重力がゆるむような、恩寵の先触れ。地にありて空を見上げるこの身は、地面のうえで腐ってゆく花びらのことを忘れたまま今年の春を過ぎ越してしまう。この春を思い出すこともなく、この花びらを思い出すこともなくなるだろう。
*
しかしまた忘れることは僕たちにとっての常態であったはずだ。今ここで見たもの聞いたもの、そのすべてを記憶しておくことは能わず、確かに構築したはずの現在がしずかに解けていく。いついかなる時も世界はその相貌を喪失し、混沌へと落ち込んでいく。我々はここで「Of course all life is a process of breaking down 言うまでなく、すべて人生とは崩壊の過程のことだ」というフィッツジェラルドの言葉を思い起こす。我々の生は不可逆的に崩壊へと向かっていく。我々は天上の神々でもなければ天使的な存在でもない。老い、老いさらばえ、最後には意識もばらばらになってしまって、死んでいく。君も知る通りだろう。地上に生きるものにとっては重力と同じくらいに所与の定め、言うまでもなく、すべて人生とは崩壊の過程のことだ。重力の重荷を背負いながら、我々はみな崩壊の只中に生きる。
*
我々の生が現にそのようなものであるということを否定することはできない。おそらくは救いが訪れることもない。それはあまりにも悲しい現実である。私は悲嘆する。私はこれまで失ってきたさまざまのもののことを思い、これから失っていくさまざまのものを思う。そしてまた、私は悲嘆する。世界がこれまでに失ってきたもの、これからの崩壊において失われてしまうもののことを思う。それらすべての、たくさんの喪失について。救いはないのか。救いはないのか。救いはないのか。僕たちはあまりにもたくさんのものを失ってきた。僕たちは。僕は選び、君は選び、僕たちは選び、また誰か知らぬ人は選び、あるいは誰の選択にもよらず、おおくのものが滅び、絶滅し、二度と戻らぬものとなった。繰り返しすら許されない、絶対不可逆の道行き。帰る場所は既になくなってしまった、いや「帰る」という言葉さえも崩壊してしまっている!!!ここにおいて我々になしうるのは歩いていくこと、ただそれだけなのか。すべてが崩れ去っていく中を、おぼつかない足取りで諾々と進んでいく、我々に許されているのはそれだけなのか。少しばかりの諦念を滲ませながら。
そうして歩を速めたとき、再び私は失ってしまった大切な数々を思った。あらかじめ失うであろう未来のことを思った。自らの中にそれが切り離されたときの空洞があり、輪郭だけは知ることはできるが、それがどのような色を、どのような姿をしていたのか、私は思い出すことができない。私はすこし悲しくなって、立ち止まる。そこは桜並木の真ん中で、逆巻く風に花びらが舞っていた。
*
立ち止まること、きっとそれは何らかの抗いでありうる。救いも許しもないならば、せめてもの祈りとしての抗いを。果たされない約束、いずれは落ちる花びら。避けがたい崩壊に抗する闘い。人はときにそれを「芸術」と呼ぶ。
芸術作品は、不連続的瞬間へのほどけ、カオス(≠カオスモス)への不可逆的な落下、不活性で粗野な「現にこうである」への還元に対して、それに尽きないもの、つまり「消尽しないもの」を、果たされるかどうかとは別に、「約束」(ロナルド・ボーグ)する。*4
*2:堂園昌彦「愛しい人たちよ、それぞれの町に集まり、本を交換しながら暮らしてください」『やがて秋茄子へと到る』
*3:
*4:
小倉拓也・講演「ドゥルーズの芸術哲学―感覚・記念碑・可能」(著書『カオスに抗する闘いードゥルーズ・精神分析・現象学』より) - YouTube
日記 20210425
人通りが少なくなった商店街。「CLOSED」の札がかけられた店舗があり、「臨時休業」の張り紙がしてある。そのような店舗が一つならずあり、電気の消えた街並みは薄暗く、月が見慣れない明るさで浮かんでいた。こうして街は死んでいくのだなということ、そしてまた、こうして僕たちは死んでいくのだなということ、を軽率に思う。
社会のどうしようもなさに対して気炎を吐くような元気はとくにないし、明るい未来なんてないんだぜって思ってしまっている今日この頃ですが、そのひとつの理由は、社会に対して働きかけるための正攻法についてあんまり知らないからなんだ、と最近気づいた。まっとうな方法、と言い換えてもいいかもしれない。「まっとうな」という言葉には規範性がつきまとってちょっとヤな感じではあるけれど、現にこの社会にはなんらかのゲームの規則があるわけだから、内的な変革(あるいはサバイブ)を目指すにせよ、ゲームそのものを書き換えてしまうことを目論むにせよ、現下の規則に対してより「まっとうな」取り組み方、というのがあるのだと思う。法律を上手に使うとか、そういうことだ、たぶん。
こんなことを考えている理由のひとつには最近ヤマザキOKコンピュータ『くそつまらない未来を変えられるかもしれない投資の話』(タバブックス、2020)がある。去年結構売れてたので、読んだ人も多いかもしれない。同書では、生まれたときからグローバル資本主義大勝利なこの世界において、自分や、自分の周りの人々が、もうすこし豊かに暮らすための方法として、「投資」という手段が紹介されている。豊かに、といっても、投資によって資産を形成してお金持ちになる、ということではなくて、考えなしに銀行に貯金して、自分のお金をシステムの運用の原資にするよりは、自分の意思をお金に載せて運用することで、経済に対してささやかながら意志を表明すること、それによって少しずつ社会に働きかけていくこと、に主眼が置かれている。経済のゲームにビルトインされている「投資」という手段をもう少し自分たちのために使おうぜ、という主張には、結局のところ零細個人投資家がいくらか集まったくらいでは何も変わらないのだろうな、という悲観的な印象はありつつも、「その手もありますなあ」という気持ちになった。
もう少し強い感銘を受けたのが、天野正子『「生活者」とはだれか――自律的市民像の系譜』(中央公論新社、1996年)。この本は、「生活者」という言葉を鍵にして、おおむね戦後日本の草の根的市民運動史を描いたもので、僕はとりわけ、今なお存在する生協組織である「生活クラブ」についての記述を面白く読んだ。公害などの問題が顕在化し、日々口にする食品の安全性であったり生活環境への関心が高まっていく中で、主に食品の共同購入活動を中心とする生協組織が結成されていく。「生活クラブ」の活動はそれにとどまらない。とりわけハッとさせられたのは、地方議会へ自分たちの代表を送り込もうとする「代理人運動」のくだりだった。食品にせよ政治にせよ、いずれも自分たちの生活基盤であることには変わりがない。であるならば、意見を表明したり、プロセスを監視するために、選挙を経て議会に代理人を送り込むことは、ほんとに、笑っちゃうくらい「まっとうな」やり方である。選挙によって選出される議員を通して、政治に参加する。これは信じられないくらいまっとうなやり方だけれど、あまりにもその実感が持てずにいて、手触りを忘れてしまっていた。もうほんと「その手があったか」と思いましたね。都議会選とかで見る「生活者ネットワーク」、謎の泡沫団体と思っていたのだけれど、上の「生活クラブ」由来の団体だと知れたのもよかった。
この2冊はいわばゲームの規則に則った「正攻法」だ。じゃあゲームチェンジャーにとっての「正攻法」は…?というと、こっちはまだよくわからない。どうやら外山恒一の新刊が面白そうなので、それを読んでみようかな、と思っています*1。
土井善晴の新刊告知を見て考えたこと
Twitterで見かけた土井善晴の新刊は『くらしのための料理学』というらしい。「学」ときましたか。
わー❣️うれしい 見本誌があがってきました。そもそも料理とはなんですか(?)という問いに答えようと書きはじめたことが一冊になりました。料理がわかると料理ができます。料理がわかって料理をすると、暮らしが豊かに楽しくなります。🟥『くらしのための料理学』NHK出版 25日発売 pic.twitter.com/8RUfUhbVEj
— 土井善晴 (@doiyoshiharu) 2021年3月18日
帯文に「その道40年、集大成にして入門の書。」とあるこの本に「料理学」というなんだかぎりぎりな感じのするワーディングがなされているのはおもしろいし、未読ながらなんだか引っかかるなという感じがする。
「料理学」といえばやはり『丸元淑生のシステム料理学』のことがまず思い浮かぶ。よく知られている通り、アメリカの栄養学を勉強した丸元がその知見を元手に節約術たることを旨としながら強烈なこだわりをもって書いた一冊であり、三浦哲哉の『食べたくなる本』で常軌を逸した量のあさりを用いる「あさりのスパゲティ」のレシピが取り上げられていたことも記憶に新しい。あるいはまた「料理学」と言わずとも、『Cooking for Geeks』、さかのぼって『台所重宝記』など、一般向けの料理本においても料理に対して注がれる学的な——科学的な——関心というものは長らくあり続けてきたのだろうなということは言えるだろうし、「料理学」という言葉もあまり不自然なものではないのかもしれない。
それにもかかわらず、『くらしのための料理学』の告知を見たときにざわめくものを胸に感じてしまった。なんなんだろう、このしっくりしない感じは。しばらく考えてみると、土井善晴と「学」なるものの微妙な距離感のことに思い至った。ちょっとばかり穿った見方になるけれど、しばし書いてみることにしてみよう。
さてその距離感、それはたとえば次のようなところに現れている。政治学者・中島岳志との対談本『料理と利他』から、土井の言葉を引いていく。
私が料理のことを科学者・学者の方とお話するというのは、料理に興味をもってくれているということがうれしいんですよ。そして、なにかわからないけども、先生ぜひ、料理のことを考えてほしいんです。なかまで、もっとこれをちゃんと科学的に捉えて、みんながわかるように、周知できるようにしてもらえたらと思っています。p.158
お料理という当たり前の毎日のことに、大切なことがあると、本気で気づいてくれた中島岳志先生に、お礼を申し上げたいと思います。この本は、私の思うお料理が初めて学問として認めていただいた証なのです。p.163
いずれも同書の巻末近く、対談の終盤であったり「あとがき」であったりに記されている言葉である。むろん対談相手の中島に対するリスペクトを示すための社交辞令的な意味合いもありつつ、「私の思うお料理が初めて学問として認めていただいた証なのです」のようないささか迫力のある言葉には、学問というもの、あるいは学問として「認めてもらう」ということが、土井にとってはことのほか重要だったのだ、というようなことを読み取ることができるように思う。言い直してみよう。土井にとって学問とは特別なもの、自らの実践を認めてくれる/認めてほしい相手なのではなかろうか。ここにおいて「学」はある種の「権威」として立ち現れてくる。
ところが、新刊のタイトルにおいては、土井自身が「くらしの料理学」の伝道者として立っている(ように見える)。彼自身が「権威」の座に位置している(ように思われる)のだ。タイトルに伺われるこのスタンスの変化がしっくりこなかったのだ、とひとまずは当初感じた違和感について了解することができる気がする。
しかしながら、そもそも土井は間違いなく「権威」である。もちろん「家庭料理」の。父・土井勝は「おふくろの味」という言葉を人口に膾炙せしめ、現在の善晴に負けず劣らず人気を博した料理研究家であり、ある意味で土井善晴は「二世」としてのエリート的な出自を持つ。彼自身が着実に積み上げてきたものも大きく、土井に対する市井からの信頼はますます高まってきている。その名声はもはや盤石たるものとさえ思える。現代の他の料理研究家と比べてみても、知名度などにおいて彼がひとつ抜け出た存在となっていることは明らかであろう。あるいは今となってはこうも言えるかもしれない。土井が「権威」であるがゆえにこそ、人々は安心して土井の言説を受容し、ますます土井のことを信奉することができるのだと。「そして、そんな人たちに、土井さんの料理論が一種の救済になっていることを知りました」とは前述の『料理と利他』、「まえがき」での中島の言葉であるが(p.3)、現代の他の料理研究家に比べても卓越した地位を土井が築いているのは、神も仏もないようなこの時代に、救いの手をさしのべるもの、いわばミニ弥勒菩薩としてありがたがられているため、ということが言えそうな気がする。
そして、「家庭料理」の「権威」という存在の様態には不穏な響きがある。もう少しこのあたりについて考えるため、伝記的なエピソードを迂回してみよう。各所で土井が書いたり話したりしている事柄だが、彼は若かりし頃、京都の河井寛次郎記念館にて家庭料理の善さ、美しさに目覚めたのだという。
そのころ、京都の河井寛次郎記念館で民藝と出合うのですが、暮らしの中の美しいものを見て、『ああ、家庭料理は民藝や』と気づいたんです。 平松洋子『食べる私』p.126
はい。『家庭料理』は民藝だと思い至ることによって、父の料理を受け継ぐ価値があると初めて感じられた。同、p.127
フランスや一流の料亭で修業を積み、プロフェッショナルな料理人として身を立ててゆくつもりであったにもかかわらず、父の料理学校に呼び戻されて、ややもすれば下にも見えてしまう「家庭料理」をやっていかなければならなくなる。おそらくは屈託もあっただろうが、「家庭料理は民藝や」という気づきを契機に腹が決まる。この気づきこそ現在の土井の出発点にあたるものであろうし、「家庭料理は民藝や」という直観にこそ土井の「家庭料理」観が凝縮されているということになろう。
言わずもがな民藝とは貴族的工藝に並置される民衆的工藝、「民衆が日々用いる工藝品」のことだ。それは「不断使いにするもの、誰でも日々用いるもの、毎日の衣食住に直接必要な品々」でありながら、いやそれゆえにこそ美しいものだとされる(柳宗悦『民芸とは何か』)。土井は民藝と家庭料理の類似点について、次のように述べている。
美しいものは逃げていく。でも、淡々と真面目に仕事すること、自分が生活をするということで、美しいものはあとからついてくるじゃないかということを、河井寛次郎や濱田庄司は、発見するわけです。(...)そうすると、家庭料理もそれと同じだなと思ったのです。毎日食材という自然と向き合い、じかに触れながら、家族を思って料理する。そういった日々の暮らしを真面目に営み、結果として美しいもの(暮らし)がおのずから生まれてくる。そのとき、プロの料理人を目指していた私が下にみていた家庭料理のなかに、本当に美しい世界があるということに、気づいたのです。『料理と利他』p.25-6
民藝運動の主導者のひとりである柳宗悦の立論において、民藝というものがもつ美しさの究極的な根源は浄土教における「凡夫成仏」の観念に見いだされる。無名の職人たちの手によって作りだされる品々が、なぜかくも美しくなりうるのか、それは無心に淡々と仕事をしていくなかに阿弥陀仏の力(他力)がはたらくためである、と。 浄土教的な観念こそ提示されないものの、土井が家庭料理に見いだす美質はこうした民藝の美学をまっすぐ引き継ごうとするものだ。
人間の暮らしでいちばん大切なことは、「一生懸命生活すること」です。料理の上手・下手、器用・不器用、要領の良さでも悪さでもないと思います。一生懸命したことは、一番純粋なことです。そして純粋であることは最も美しく、尊いことです。『一汁一菜でよいという提案』p.85
気張ってごちそうを作る必要はない、もっと簡単な形--「一汁一菜」という「型」を守ること--でよい、ただ無心に一生懸命生活することが美しく尊いのだ、と彼は言う。柳らが「民藝」を見いだしその価値を掬い上げようとしたのとパラレルに、土井は「家庭料理」を見いだし、その価値を見直そうとしているのだと言えよう。いずれも名もなき人々の手仕事に目を向け、それを改めて評価するものである。そこにはごく普通な生活者へのリスペクトであったり、優しさや温かい共感、慈しみのようなものを感じることができる。ある意味で、彼らは我々がこの世界にあることを肯定し、認めてくれる存在であるのだ。土井の言葉を「救済」と感じる人々がいるのも無理からぬ話である。
しかし、こうした実践は非常に善いものであるのだが、その一方でそれが深まれば深まるほどむしろ逆説的に土井は「家庭料理」とは程遠い存在になっていくのではないか、という疑念がある。
「民藝」といえば柳宗悦らの固有名を思いうかべてしまうのは、それが幾千幾万もの名もなき人々のことを想起するよりも容易で経済的であるからでもあるが、何より我々が彼らの名を「民藝」にとって特権的なものとして記憶しているからに他ならない。それと同じように、いま我々にとって土井は特権的な存在としてある。彼は「家庭料理」の「権威」である。でも、それは彼が見いだした「家庭料理」のあり方とは矛盾するものではないだろうか?
二〇一三年十二月、和食(日本人の伝統的な食文化)がユネスコの世界無形文化遺産に登録されました。(...)これはまさに、日本の国民の健康と暮らしの情緒に関わる家庭料理のこと(...)にも関わらず、メディアは、名のある和食の料理人ばかりに、マイクを向けるのはなぜでしょう。どうして、日本の家庭料理を担ってきたおばあちゃんや母親のもとに、行かないのでしょうか。『一汁一菜でよいという提案』p.104
暮らしの文化を担い、伝えてきた日本の女性たちの家事は社会的にリスペクトされず、褒められることがありません。残念に思います。同、p.106
土井が「家庭料理」の実践者たちとして真っ先に思い描いているのは、こうした女性たちの営みであり、あるいは自身の母である土井信子の姿であろうか。彼女らが毎日淡々とつくる「家庭料理」、イヴァン・イリイチ風に「シャドウ・ワーク」と言ってみてもよいが、長きにわたりその価値が正当に評価されず軽視されてきたこの営みの再評価を土井は試みる。それが意義深い仕事であることに異論の余地はないが、その一方で土井はどんどん「有名」になってしまう。「家庭料理」はなによりも「無名」の人々のものである。土井は、ここに生じる「引き裂かれ」を生きざるをえない立場にある。
そうした不安定性を解消するために土井は、自身が「家庭料理」を認めるのと同様の構図で自身を認めてくれる上位の存在--すなわち「学」--を求めていたのではないか、というのが僕なりの根拠の薄い仮説だ。それがなぜ土井にとって「権威」となりうるのかは明らかではないが、仮に憶測の度合いをさらに深めることが許されるならばそれは、土井にとって「学」が「伝統」や「(食/日本)文化」とかなり近しいものと映っているからではないだろうか。
彼にとって、あるいは彼の「家庭料理」観にとって、「伝統」や「文化」はほぼ絶対的な存在である。そこからの逸脱が完全に否定されるわけではないが、作為をよしとせず、風土に適した食生活を営もうとするならば、自ずから昔から受け継がれてきた知識や実践に従うことになるし、それこそが「家庭料理」に秘訣となる。これは、柳宗悦が阿弥陀仏の他力のことを「伝統」とも言い換えていることにつながる。
つまり、職人の作業には、職人の意識的な努力とは別に長い伝統が関与している。もし職人の意識的な努力を、仏教用語にならって自力とよぶならば、民芸品は、自力による作品というよりも他力がつくる品物という方がふさわしい、と柳宗悦は考える。もちろん、この時の他力とは伝統というのが正しいであろう。柳宗悦は、のちに、力弱いものが安全に世を渡ることができるのは伝統の力によるとくりかえしのべるが(...)阿満利麿『美の菩薩』p.107-8
アプローチの仕方は違うが、「学」にせよ「伝統」や「文化」にせよ、それぞれの「理」にしたがって合理的に積み上げられてきた知恵と営みの集積だとひとしく言えないだろうか。それゆえにこそ、自らの属する価値体系とは異なり、しかし自らにもその重要性が理解しうるような「権威」として、土井にとっての「学」があったのではないか。そんなことを考えている。
だからこそ、新刊の題名が『くらしのための料理学』であったことを意外に思った。「学」である。それは彼にとって近しくありつつも、遠くあらねばならぬ存在だと思っていた。いまや彼自身が「学」を言う。ことのほかその違和感が私には大きく感じられたようで、ついつい長々と考えてしまった。まだまだ考えてみるべき事柄はいろいろあるけれど、いったんこのへんで一区切りにしようと思う。
阿古真理に「料理研究家を語ることは、時代を語ることである」という至言がある。彼女に倣って言うならば、僕は土井善晴を通じて、彼が必要とされるこの時代についてこそ考えてみたいと思っている。
日記 20210318
日ごとに暖かくなってくるような気がする。読んだり書いたりする元気が少しずつ戻ってくるような気がする。日常のちょっとした煩いをやっていくための諦めを少しずつ深めていくような気がする。全部殺すという気合を忘れないこと。とりあえず外に歩きに出てみるということ。映画館に映画を見に行くこと。鑑賞後、くらやみから出たときに見える街並みが美しいこと。自分ひとりの部屋をもつこと。部屋に入ったり出たりすること。イヤホンで音楽を聞くこと、自分ひとりの空間を切り取るようであって、しかしそれは風景をフッテージとして編集作業を行っているようでもあり、それもまた世界との関わり方の一つなのだと思う。「世界」なんてものについて考えても生活をしていく上では一切の役には立たないけれど、それが確かに自分を生かしているのだということ。
いろいろな物事に目移りするし、どうしようもなく気力が減退してしまうこともあるけれど、結局は読んだり考えたり書いたりすることが僕にとってもっとも大事なことなのだと思う。たとえ十分に優れてはいなかったとしても。
日記20201112
昨日の日記を通勤電車で書く日があってもよい。
久々に山に登る。
前夜思い立って翌朝行ける場所に山があるのはよい。つくづく山と海の間にへばりつくようにして我々は暮らしているのだ、と思う。
山を歩いているとき、無心になる人もいれば、いろんなことを考えてしまう人もいると思う。昨日の僕は概して後者であり、さまざまなよしなしごとを思いながら歩を進めていく。
熟達した登山者ではないから、何も考えずに自動的に最適な次の一歩を踏めるということもなく、一歩ごとによく考える必要があって、歩くことはまるで地面との対話のようになる。実際にはこの対話に認知資源の大部分は使われていて、よしなしごとが浮かぶのはその合間合間にすぎない。
とはいえしばらく歩いているとこの対話もやや後景に退くことがあって、そのときはだいぶ無心に近い状態になったりする。そのとき、たとえどんなに体を動かしていようとも、「待っている」ような感覚になることがある。何をか?それはわからない。能動態に潜む受動態。山にいるときに限らず、能動性らしいものをぜんぶうっちゃってしまえば、人間は概して待っているのかもしれない。ベンヤミンに倣ってそれをメシア的時間を生きているのだと言ってもよいし、言わなくてもよい。
たとえばそれは散歩しているとき、あるいは朝の通勤路。天頂に登る前の太陽の光はまだ低いところから射し、地上の事物に長い影をもたせる。明と暗のあわいが入り乱れ、平滑な光の下では現れない複雑さが現出する。アレーテイア。隠れている世界の豊かさが我々に対して開かれるときのハッとする感じ。ハイデガー的語彙で表したなら、こんな胸がサッとするような感じを待っているのかもしれない。
たぶん僕は、世界の豊かさのようなものーーというようなものがあるとすれば、なんだけどーーに対して圧倒的な信頼を寄せているし、それが生の底を形作っているようなところがある。言うなればロマン主義者なのか。ポストモダニストにはなりきれない。
紅葉はまだまだ始まったばかり。しかしモミジが色づき始めるのは早いのだ、ということを知った山行だった。
日記20201023
勤務先が大きなオフィスビルの一角にあるし、最寄り駅が一つしかないから、必然的に通勤時間の駅は混んでいる。地下鉄駅から地上へと出ていくときの細いエレベーターに並ぶ人たち、群れをなすようにして橋を渡り、オフィスビルに吸い込まれていく人たち。ぼくもまたその一人であり、どうしたってぼくは類的存在でしかないのだ、ということをよく考えさせられる。ぼくはそのことを深く悲しんでいる。
帰りがけ、同期の同僚にこの悲しみについて話してみる。彼は、「えっ」と言い、「まあたしかにちょっとは悲しいけどさ」と言う。
悲しみというのは類的なものとはなりえないのだ、と思う。群れなして電車に運ばれる人々に挟まれて、こんなことを書いている。
日記20201010
やっていた仕事が終わらなくてしばし延長線となってしまう。調べていたことがなかなか明らかにならないだけで、疲弊するほどのことではないのだけれど、結局真相にたどり着くこともなく、まったく展望のない小山を登ったときのような釈然としない気持ちだけが残る。
昼休みに読み始めた堀江敏幸の『正弦曲線』にはこんなことが書いてあった。オシロスコープに映る波形図から語り起こされる随想である。
人生は山あり谷ありとつぶやく場合の高低差は、原則として不揃いである。頂上の位置も谷底の位置も、規則正しくあらわれることがない。波瀾万丈。紆余曲折。(…)
しかし、ほんとうにそうだろうか。(…)フランス語でジェットコースターのことを「ロシアの山」というけれど、想像されるイメージはまさしく高低差の小さいウラル山脈のごとき山々であって、アルプス山脈ではない。心電図の恐怖からもレーダーの緊張からも解放されている正弦曲線は、甘美で、ゆるやかで、しかも単調である。(…)
日々を生きるとは、体内のどこかに埋め込まれたオシロスコープで、つねにこの波形を調べることではないだろうか。なにをやっても一定の振幅で収まってしまうのをふがいなく思わず、むしろその窮屈さに可能性を見いだし、夢想をゆだねてみること。正弦曲線とは、つまり、優雅な袋小路なのだ。
金時山に登ったときのことを思い出す。天気が思わしくなく目当てにしていた富士山の展望は得られず、隣のヤブ山へ縦走したのち、強羅に降りて温泉に浸かったこと。山を登る者は下りる者でもある、というわけ。
通勤路という正弦曲線。優雅な袋小路とは、それが袋小路だと知っている者にとってのみ現れる恩寵なのではないか。あるいは神々の山嶺からすべてを見晴るかしてしまった者の物言いのようでもあり、ウラル山脈の古い山々には新規造山帯がもちえないなんらか別の高みというものがあるのかもしれない、と夢想が続いていく。
とはいえここはせいぜい箱根の外輪山、この稜線がいつまで/どこまで続くとも知らないまま、ゆるやかに波打つ線上で僕は藪を漕ぎ続けている。