日記20201010
やっていた仕事が終わらなくてしばし延長線となってしまう。調べていたことがなかなか明らかにならないだけで、疲弊するほどのことではないのだけれど、結局真相にたどり着くこともなく、まったく展望のない小山を登ったときのような釈然としない気持ちだけが残る。
昼休みに読み始めた堀江敏幸の『正弦曲線』にはこんなことが書いてあった。オシロスコープに映る波形図から語り起こされる随想である。
人生は山あり谷ありとつぶやく場合の高低差は、原則として不揃いである。頂上の位置も谷底の位置も、規則正しくあらわれることがない。波瀾万丈。紆余曲折。(…)
しかし、ほんとうにそうだろうか。(…)フランス語でジェットコースターのことを「ロシアの山」というけれど、想像されるイメージはまさしく高低差の小さいウラル山脈のごとき山々であって、アルプス山脈ではない。心電図の恐怖からもレーダーの緊張からも解放されている正弦曲線は、甘美で、ゆるやかで、しかも単調である。(…)
日々を生きるとは、体内のどこかに埋め込まれたオシロスコープで、つねにこの波形を調べることではないだろうか。なにをやっても一定の振幅で収まってしまうのをふがいなく思わず、むしろその窮屈さに可能性を見いだし、夢想をゆだねてみること。正弦曲線とは、つまり、優雅な袋小路なのだ。
金時山に登ったときのことを思い出す。天気が思わしくなく目当てにしていた富士山の展望は得られず、隣のヤブ山へ縦走したのち、強羅に降りて温泉に浸かったこと。山を登る者は下りる者でもある、というわけ。
通勤路という正弦曲線。優雅な袋小路とは、それが袋小路だと知っている者にとってのみ現れる恩寵なのではないか。あるいは神々の山嶺からすべてを見晴るかしてしまった者の物言いのようでもあり、ウラル山脈の古い山々には新規造山帯がもちえないなんらか別の高みというものがあるのかもしれない、と夢想が続いていく。
とはいえここはせいぜい箱根の外輪山、この稜線がいつまで/どこまで続くとも知らないまま、ゆるやかに波打つ線上で僕は藪を漕ぎ続けている。