屋上屋

屋上で小屋を建てている

日記20201112

昨日の日記を通勤電車で書く日があってもよい。


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久々に山に登る。

前夜思い立って翌朝行ける場所に山があるのはよい。つくづく山と海の間にへばりつくようにして我々は暮らしているのだ、と思う。

山を歩いているとき、無心になる人もいれば、いろんなことを考えてしまう人もいると思う。昨日の僕は概して後者であり、さまざまなよしなしごとを思いながら歩を進めていく。

熟達した登山者ではないから、何も考えずに自動的に最適な次の一歩を踏めるということもなく、一歩ごとによく考える必要があって、歩くことはまるで地面との対話のようになる。実際にはこの対話に認知資源の大部分は使われていて、よしなしごとが浮かぶのはその合間合間にすぎない。

とはいえしばらく歩いているとこの対話もやや後景に退くことがあって、そのときはだいぶ無心に近い状態になったりする。そのとき、たとえどんなに体を動かしていようとも、「待っている」ような感覚になることがある。何をか?それはわからない。能動態に潜む受動態。山にいるときに限らず、能動性らしいものをぜんぶうっちゃってしまえば、人間は概して待っているのかもしれない。ベンヤミンに倣ってそれをメシア的時間を生きているのだと言ってもよいし、言わなくてもよい。

たとえばそれは散歩しているとき、あるいは朝の通勤路。天頂に登る前の太陽の光はまだ低いところから射し、地上の事物に長い影をもたせる。明と暗のあわいが入り乱れ、平滑な光の下では現れない複雑さが現出する。アレーテイア。隠れている世界の豊かさが我々に対して開かれるときのハッとする感じ。ハイデガー的語彙で表したなら、こんな胸がサッとするような感じを待っているのかもしれない。

たぶん僕は、世界の豊かさのようなものーーというようなものがあるとすれば、なんだけどーーに対して圧倒的な信頼を寄せているし、それが生の底を形作っているようなところがある。言うなればロマン主義者なのか。ポストモダニストにはなりきれない。

紅葉はまだまだ始まったばかり。しかしモミジが色づき始めるのは早いのだ、ということを知った山行だった。

 

 

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