屋上屋

屋上で小屋を建てている

たった一つとして冴えたやり方なんてない

あわただしく連休。

知人の結婚式に参列する。キリスト教式結婚式ではお馴染みの次の文言を聞き、しばし考える。

病める時も健やかなる時も

富める時も貧しき時も

妻/夫として愛し、敬い、

慈しむことを誓いますか?

ふつうに想像すると「こんなん無理やろ」と思ってしまう言葉だ、と思う。苦しいときにも他者への配慮を欠かさないというのは並大抵のことではない。これを誓うのには途轍もない覚悟がいるような気がするし、むしろ、こんな無茶なこと誓わないほうがよっぽど誠実なんじゃないか、という気もする。

という話を翌日、友人にする。すると、次のような知見が返ってくる。すなわち、「無理だと分かっていて、<それでもなお>それを求めるところにこそ、誠実さが生じるのではないか」ということ。婚姻における脱構築的正義。「誓い」というものはそもそも、そうした無限遠点を必要とするのかもしれない。

しかし、それにしても、<それでもなお>をやっていくのは大変だ。意志が必要であり、体力が必要であり、やっぱり覚悟が必要である。これらを可能にせしめるのは、いったい超自我の働き、必当然性の呼び声であるのか、それとも根源的衝動の為すところなのだろうか。僕にはほとんど見分けがつかない。

とは言いつつも、そもそも他者とは、それだけの覚悟をもって向き合っていくべきものなのだった。ひょええ。冴えたやり方なんてものはないんだろう、たぶん。