屋上屋

屋上で小屋を建てている

西藤定『蓮池譜』

いただきものの感想を。

 

*

 

青嵐 鰯が飛んでいるようなにおいの町に平日もいる(170)

 

ただ地上で佇んでいるときにもからだには1気圧の力がかかっていて、それで私たちが潰れてしまうことがないのは、体内に存在する空気が同じ力で押し返しているから、らしい。力と力のつり合い。ただそのまま居るということだけにも「努力」が必要になるということ。

そういう些細で繊細な均衡のことはいつでも忘れっぱなしにしてしまうし、もし均衡が崩れるその度ごとに調整が必要であったならば、私たちはずっとそれにかかりきりになってしまうだろう。私たちの生体の機構は本当によくできている。

でも時として、そう、たとえば潮風を浴びたときなんかには、からだにまとわりつく大気の流れが確かに「重さ」や「手ごたえ」——これらは気圧とはまた異なるものだけれど——のようなものを押し付けてくるような感じがして、そういうときには、今その瞬間も続いている力と力のせめぎあいのことを思いだす。

大気の力に抵抗しながら今ここに立っている(あるいは寝そべっている)ということ、あるいは私たちがじぶんの身に向けられた諸力に対して適切な均衡を調整し続けながら生きていること。

こうした事態にあくまでフラットな目を向けているのが、この歌集、西藤定『蓮池譜』なのだと思う。

次の一首にはそうした感覚がつよく反映されていると言えるだろう。

間が悪く手で押し返す自動ドアその手ごたえで「やれます」という(38)

前を行く人が行ったあと、自分が通ろうとした頃には自動ドアが閉まり始めていて、手で押し返しながら身を滑り込ませる。閉まろうとしている自動ドアの手ごたえは案外重く、それを押し返す手にもぐっと力が入る。もちろんドアのほうにも安全機構が仕込まれているので、押し返した時点でドアはまた開いていくのだけれど、手には意外と重みのある手ごたえが残る。おまけに、「締め出されかけた」というような感触の後味の悪さ(僕が経験したことのある自動ドアの手ごたえというのはこんな具合で、この前提で話を進める)。
この歌において発される「やれます」という言葉はどうやら、意欲や元気といったものとはすこしばかり遠い位置にありそうだ。そこそこのプレッシャーを感じさせられながらしかし、「やれます」という返事以外は予定されていないような、そんな状況が想像できる。

自動ドアは閉じ切っていない=限界崖っぷちとまではいかないものの、平均台の上くらいは歩いていそうな、そんな日常茶飯の感覚は、たとえば仕事のことを詠んだであろう次の歌にもみられるように思う。

乾電池腹からこぼしつつ進む 燃えてもまだ旨いプロジェクト(185)

ロボットというよりは機械仕掛けの人形が、腹の電池ケースからぽろぽろと乾電池を落としながらも進むことをやめようとしない光景が浮かぶ。終盤になってからの仕様変更、思いがけない考慮漏れの発覚、突然の人員転換……さまざまな理由でプロジェクトは火を噴くことがあるけれど、炎上したからといってそれが必ずしも中止されるわけではないし、まだまだ採算はとれるということで、燃え上がった現場がそのまま継続されることはままあるだろう。もちろん当該のメンバーからしたら極めて災難な事態であって、それこそ乾電池を腹からこぼしながら働かなければならなくなったりするわけですが。浮かぶ情景はユーモラスでありつつも、確かな悲哀が共感を誘っている。

このような生きていくことの大変さ、苦しみのようなものは、次の歌の「霧雨」と似たような「こわさ」なのだと見做すことができるかもしれない。

うしろから前から襲う霧雨の理不尽でないこわさを思う(188)

とはいえ、この歌集がすごく後ろ向きなものなのかというと、そういうわけではない。さまざまな圧力や苦しみを感じながらも、むしろ著者は生に対してあくまで意欲的だ。
たとえば先ほどの引いた歌と同じ連作「行けよ」に含まれる次の歌は、先の歌とすこし響きながら、あくまで生きることの楽しみに向かう姿勢がうかがえる。

空き腹を油であたためただけの心とからだでも会いに行く(186)

あるいは、次の歌こそが、本書のトーンの機軸となっていると言えるかもしれない。

生きたいしそのうえ生き延びたいからそこかしこにお祭りを注ぐ(139)

本書には音楽、ゲーム、Vtuberなど、さまざまなものを扱った題詠が含まれており、そのひとつひとつが著者にとって切実な「お祭り」なのだろうと思う。とりわけ、私が著者とおなじくトロンボーンを演奏することもあって、音楽関連の歌に興味をひかれた。

腹筋のひとつうしろの壁で吹くトロンボーンは平らかな湖(27)

トロンボーンという楽器は和音係のような役割を負うことも多いのだが、その場合ロングトーン、すなわち安定した伸ばしの音をぶれることなく奏することが求められる。吹奏楽器においてこれはなかなか修練が必要なことで、減っていく肺の中の空気に応じて筋肉の使い方を変え、一定の圧力、一定の息の流れを維持する必要がある。そうして初めて、平らかな湖のような穏やかな長音が達成されるわけで、静謐な湖面の裏に、序盤で述べたような力の均衡を読み取ることができるように思う。
楽器を吹くのはそういうわけでとっても難しかったり、大変なことの連続ではあるのだけれど、ではなんでアマチュアであろうと音楽をやるのかといえば、それは間違いなく「楽しい」からだろう。

星条旗よ永遠なれ》で体力を使い尽くせばコンサートなり(29)

星条旗よ永遠なれ」は、ジョン=フィリップ・スーザ作曲のマーチで彼の代表曲。吹奏楽曲の中で最も知られているマーチと言ってもよく、プロからアマまで様々な吹奏楽団の演奏会において定番のアンコールピースでもある。軽快な前半部からPicc.ソロが印象的なトリオを経て、まさに大団円といった様子の後半部がやってくるという構成だが、奏者としては短い曲ながらけっこう体力が必要な曲で、演奏会のメインになる大曲を演奏した後、さらに「星条旗」を演奏するともうへとへとになってしまう。しかしこの「へとへと」さこそ演奏会のカタルシスでもあって、その感覚がやみつきになってしまう人も多くいるように思う。

——散漫になってきてしまっているので、最後に一首引いて終わろう。

前屈を妨げる肉 まだつよく醜くなれる。わたしはなれる(176)

思わず自分のおなかを見つめてしまう。本書の中で句点が用いられているのはこの一首だけで、決意と断定の力強さを聞き取ることができる。様々なコンテンツを楽しみながら、日々晒される圧力となんとか均衡を保っていこうとする努力、その姿勢を好ましく、頼もしく思う。どうぞお達者で。