屋上屋

屋上で小屋を建てている

ガウデアムス

 就職する。働き始める。コロナウイルス関連の対応で延びていたのだけれど、いよいよ月曜日に初めての出社となる。とはいっても、最小限の手続きが行われるだけで、次の日からはリモートでの研修が始まる予定だ。入社式は五月に延期された。どれくらい僕は「儀式」的なものを欲しているのか、それはわからないけれど、稀なかたちで延長された春休みがいざ終わるというとき、なおさら区切りのつかない気分は残る。

 学部を卒業して大学院へ進学するときには、もちろん節目というものを肌に感じてはいたけれど、やっぱり学生であるということは変わらないし、社会から見ても多分そんなに違いはなくて、過ぎ去りつつある過去との断絶を感じることはあまりなかった。大学院を修了して、会社人になろうかという今、断絶のようなものを明確に感じる。学生という身分は代え難いものだ。あたかも、一度失ってしまえば二度と手に入らないようなもの、のような気さえしてくる。実際そうなのだろう。我々が身を置いた「移動祝祭日」は、追想の果てにあって猶更輝きを増す。たとえしばらく経ってから再びアカデミアの門を叩くことがあったとしても、同じ場所に帰りつくことはないだろう。我々が身を置くのは常に、我々の知らなかった時間だ。未知を手探ること。強風の吹き荒れる場所ならば渾身の力で立ってようやくその場に居続けることができる。

 振り返ってみれば愚かなままであった、と述べることは容易く、またそれは間違いのない事実でありながら、事実だという理由で免責されるわけでもない。愚かなまま、ただそれだけだ。

 僕の生活のどれほどが仕事に割かれるのか、それはまだわからない。でも、少しづつでいいから、学び続けることをやめなたくはない。知を愛し、文化を尊び、善を求めよう。たぶんそれが、この世に相対する僕なりのやりすごし方になるはずだ。

 とはいえ、春休みに書こうと思っていたものは少しも書けず、読もうと思っていた本を開くこともなく、たいがい怠惰に過ごしてしまったわけだから、そんな高邁な理想を掲げること自体愚かしいのかもしれない。そう、僕は愚かなままなんだ。

 

 なにはともあれ、愛すべき僕の、僕らの学生時代に別れを。Gaudeamus Igitur! 過去は長く続く。いつかまたどこかで。