屋上屋

屋上で小屋を建てている

生き延びるための仮組み

出口なし それに気づける才能と気づかずにいる才能をくれ

中澤系

 
 きみは、どうして生きているんだい?
 こう問われたとき、明瞭に答えを返すことのできる者はどれほどいるだろうか。
 他でもない自己自身を、ひとまずのあいだは生かし続けること、これは自明のことだとみなされている。しかし、生きることに苦しみが付き纏うことは周知のとおりであるし、であればこそ、この世に生まれ落ちることは災厄なのだとまで言われることがある。自己を活かし続けることは、少なくとも今暫くの間、この受苦の時間を不可避的に引き受け続けることを選ぶのと等しい。にもかかわらず、多くの人間は生存している。彼らは、そしてまた私は、苦しみに耐え続けることを選んでいるのだ。
 生きることは苦しいばかりではない。時には負債を帳消しにしあるいは大勝ちにさえ持ち込むような幸福な時間があるではないか、と言う人がいる。たしかに、そういう時間はある。誰しもにあると言えばそれは傲慢だが、しかしそうした時間は万人に到来しうる。世界は驚くべき形で我々の眼前に幸福を開示することがある。だが例えば、これから訪れるであろう幸福の総量とこれから耐え忍ぶことを余儀なくされる不幸な苦しみとを比べてみれば、それは到底割に合うものではないだろうと考える人は少なくないのではないか。こうしたとき、多くの人間が生きること、生き続けることを選び取っているという現状は、きわめて不思議なものであるように思われる。
 むろん、先のような功利計算は、そもそも成り立つのか微妙なものだ。幸福と不幸とをその量において比べることは、いくら代替となる指標を用意したところで可能となるものではないだろう。そもそもの設定がおかしいのだと指摘することは無理筋の主張ではない。
 あるいは。生命それ自体に根本的に無限の価値があり、その輝きは生存の労苦によって曇らされるようなものではない、と言う人もいる。生誕の計量不可能な幸福。それは祝福だ。祝福を受けて世界に出で立つこの生命は、紛れもなく幸福で、生き続けるに値するのだと。
 本当のところはわからない(私たちに「本当のこと」がわかった試しなんてあるだろうか?)。ここで確かに言えるのは、私がまだ生きていて、今暫くの間生き続けることを望んでいる(本当か?)、ということだけだ。私は上のような仕方で幸福と不幸を計算することを拒否し、また生の根源的な価値を信じている。どこかで。しかし、それらの微かな信は、私が生き続けることを決して助けはしない。
 
 私の生はまずもって私の肉体とともにある。日々朽ち果て、また生産し続けるこの身体とともに。適切な配慮なしには寿命を待つまでもなく尽き果ててしまうこの身体とともに。そして、身体とは何にも増してこの資本主義社会に深く深く組み込まれた当のものである。それゆえ生命もまた不可避的に資本主義の経済(エコノミー)へと参入する。そこでの価値にとっては、幸福と不幸の比較不可能性も、生命の不可量な輝きも、なんら意味のあるものではないのだ。生命の根源的な輝きは一個のジャガイモを買うのになんら資すところはない。スーパーのレジでこの生命を提示したところで、何も購うことはできないのだ。生命が身体の存続についてそれ自体において役立つことは、一切ない。
 だから私は身体を使用して労働することになる。きわめて幸運な場合には労働は幸福の源泉となるが、ますます苛烈を極める資本主義世界において、労働に導入された身体には様々の労苦が降りかかる。身体と生命は多くの不幸を経験する。時として死に至るほどに。それでも私達はなんらかの仕方で労働する。それだけが生き延びる道なのだから。
 
 我々の時代の、我々の社会の多くの身体と生命は、このようにして絶望的な事態へと投げ込まれる。私達は自らの被る労苦をもって自身の生存を贖う。それはマーク・フィッシャーが『資本主義リアリズム』に書き遺し、同書を評した樋口恭介が「生きることの不可避な売春性」と名指した絶望に他ならない*1
 生きることを売り渡して生きることを買い取り続ける私達に、幸福による不幸の減算や、祝福された生の根源的肯定は、夢想家の繰り言にしか映らない。たとえどれだけ熱烈に信じていたとしても、夢想が我々の身体を生かすことはない。比べるのは無意味だとわかっていても、生の停止、すなわち自死を選ぶほうが、よっぽど我々を救うようにさえ思われる。

 樋口の評を一部引く。

マーク・フィッシャーは資本主義リアリズムの欺瞞を暴いた。しかしそのウイルス性の病いに憑かれて死んだ。始まりつつある「災禍」──資本主義によって、原理的に 〈加速〉されるメンタルヘルスの問題──に巻き込まれて死んだのだ。世界は少しずつ終わりに向かっていく。誰もが意味のない希望の中で意味を感じ、無意味な行動を繰り返して死んでいく。資本主義は終わることはない。最後の一人に至るまで、災禍は続いてゆく。私たちはその様子を眺めることしかできない。資本主義リアリズムは私たちに、そうした思考を要請する。
しかしながら、今ここにいる私たちは、まだ生きている。
生きている私たち。残された私たちは、そうした病いとどのようにして戦うことができるのだろうか。
何もできはしない。ここにあるのは絶望だけだ。災禍はすでに到来しており、それは大いなる流れだ。私たちは抵抗することなどできはしない。
 まさしく。我々はどうしようもなくこの時代の渦中にある。うねる渦流から逃れることはできない。そのように思われる。しかしながら樋口はこの絶望に飲み込まれてしまっているのではない。彼は次のように続け、評を締めくくっている。

そうではない。ここにあるのは災禍の兆候だ。炭鉱のカナリアが鳴いている。私たちはその鳴き声を聞くことができる。カナリアはもう鳴いている。聞こえないだけだ。聞こうとすることはできる。

(中略)

今では夢想家だけが愛を語る。資本主義の外にあるものを語る。

今では夢想家だけが、過去となった未来が辿る、それらの痕跡を──レクサプロの時代の愛を──見つけ出すことができるだろう。

 「何もできはしない。ここにあるのは絶望だけだ。災禍はすでに到来しており、それは大いなる流れだ。私たちは抵抗することなどできはしない。そうではない。ここにあるのは災禍の兆候だ。炭鉱のカナリアが鳴いている。私たちはその鳴き声を聞くことができる」。ここにあるのは逆転されたメシアニズムだ。もはや来たるべき栄光の王国、救いの時を無限遠に予期し待ち望むことはできない。そこにあるのはすべてを灰燼に帰する災禍だ。我々の生は災禍への道のりを辿るが、しかしそれゆえに災禍は未だ訪れてはいない。我々のもとに表れているのは災禍の「兆候」にすぎない。しかしそれゆえ我々は、その道のりの「外」へと歩みだす可能性を許されている。樋口の抱く希望とはどこまでも続く絶望の果てに見いだされるものだ。それほどまでに、この世界において希望を抱くことは難しい。絶望の極点にあって希望を見出すこと、樋口の書評はこの困難な仕事をなんとか成し遂げようとする稀有なものだ。
 
 しかし、しかしだ。私は「しかし」と思わずにはいられない。災禍の到来に至る時間もまた、絶望的なものに充たされているのだ。夢想は我々を救いはしない。さえずるカナリアを見殺しにしてもなお、我々の肉体は重すぎる。
ぼくたちは永遠に存在を追い越すことができない、それだけだ*2
 我々の存在は肉体をもってしてこの世界に構成される。いや、肉体とは世界を組み立てる強烈なモメントであって、それは災禍へと向かう坑道から脱出するには重すぎる。存在の耐えられない重さ。存在は常に重すぎる。荷を軽くすることはできないのだ。
 生存するとは重い荷を担い続けること。荷は災禍の到来を待つまでもなくこの身に伸し掛かっている。ならば、せめてもの支えを構築することはできないか。無限遠点から演算される猶予としてではなく、生存を擁護することはできないか。それは私を救うため、それは他者を救うため。生き延びるための根拠を今ここにおいて仮組みすること。出口はない。ならば、せめて庵を。荒野に小屋を。この暗闇に明かりを灯すこと。ぼくはどうして生きているのか?わからない。それでも、どうしようもなく生きていたいのだと思う。
 
  

資本主義リアリズム

uta0001.txt―中澤系歌集

*1:

unleashmag.com

*2:中澤系「to mean, it's mean」『uta0001.txt――中澤系歌集』:31頁