屋上屋

屋上で小屋を建てている

不確かなものについて考え続けることの倫理的要請とその苦しみ

ぼくは、いわゆる人文学をやっている人間だ。もっと正確に言えば、その門前に立っている、といったくらい。人文学とひとくちに言ってもその内実は様々であって、色んなことをやっている人々がいる。ぼくのディシプリンは(おそらく)芸術学だ。芸術学をディシプリンとして規定するのはけっこう難しくて、むしろ、芸術を対象として、いくつかの学の知見を用いながら研究をしている、と言ったほうがよく説明できている気がする。芸術を対象にするにしてもこれまた色々なスタイルがあって、ぼくがやっているのは、ある芸術家ユニットについてその作品や文章(これもまあ、作品と言ったほうがよいだろう)を分析しながら、その思想――彼らは何を考えていたのか――を詳らかにしていく、という作業だ。

そもそも、なぜこういうことを始めたのか。就活をしているときに考えたのだけれど、根本にある大きな動機は、「他者を理解したい」ということだったように思う。ならば社会学とか心理学とか文化人類学とか、もっと他のディシプリンを選んでもよかったのでは、と思われるかもしれない。確かにそうだ。でも、芸術を対象にする、と決めたときのぼくはたぶん、自分とすごく異質で遠い対象を選ぶことによって、別な仕方の思考について考えたい、というようなことを考えていたはずだ。これはかなりステレオティピカルな物言いになってしまうけれど、ある種の芸術家はとてもエキセントリックな思考をしている。つまり、彼らは全然ふつうではない。その「ふつうではなさ」に手をのばすことが、あるいは、その「ふつうではなさ」を擁護することが、なんだかとても必要なことだと思ったのだ。実際には隣りにいる他者でさえも本質は無限であり、全然ふつうではないのだけれど、しかし、芸術家たちは、「ふつうではなさ」を意識的に/無意識的に先鋭化させていていることが多く、より取り組みがいがある、と考えていた。とはいえ、ミーハーな部分があったことも否定できないけれど。

しばしば槍玉にあがることだが、人文学はとても不確かな部分をふくむ。もちろん、実証研究がある程度可能で、比較的広く理解されやすい証拠を提出することがしやすい分野もあるけれど、多くの分野では、現行の学問の制度が求めるような「確かさ」を用意することが難しいことも多い。もちろん、この「確かさ」――全部がそうだと言いたいわけではないし、ぼくは別にアンチ・エビデンス主義者だというわけではない、ということは付言しておきたい――だって恣意的な基礎の上に立っていることがしばしばあるのは知られている通りだ。とはいえ、人文学における「確かさ」が、専門家集団の外から見て、得心のいきづらいものであるというのは否定できないだろう。たとえば、あるテキスト群からその著者の誰其はこう考えていた、ということを導き出すのには、どうしたって「不確かさ」がつきまとう。

でも、こうした「不確かさ」は、人文学の核に存在するものではないだろうか。それは現行の学問制度とは反りの合わない面を持つにせよ、失われてはならないものなのだとぼくは思う。不確かだからこそ、ぼくたちはそれについて考え続ける。「確かさ」と「不確かさ」を行き来しながら、不確かなものへと手を伸ばし続ける。それこそが人文学における思考というものだ。

ぼくのディシプリンに引き受けて考えてみよう。芸術作品や、芸術家の書いたテキストは、とても支離滅裂で不確かなものであることも多い。ふつうな論理では出現しないものがそこにはある。それでも、その「ふつうではなさ」「不確かさ」の塊のなかに、なんらかの「ふつうではない」論理が見いだしうるかもしれない。なんらかの、外れ値的な真理が存在するかもしれない。この「かもしれない」に賭金を置いて、ぼくは、証拠となりうるものを集め、それを飛び越えたりそこに立ち戻ったりしながら研究をしている。

ある文化人類学の講義で聞いた先生の言葉で、とても印象的なものがある。曰く、「文化人類学者は、行って帰ってこなければならない」のだと。行ったきり帰ってこなければ、それは普遍性を欠き、学たりえない。おそらく他の分野でもこれは同じだ。学たりうるため、あるいは、強度のある思考であるためには、帰ってくる必要がある。他者に開かれた思考でなければならないのだ。

それは「不確かさ」について誠実であるためにも重要な態度だ。たとえ「不確かさ」がどれだけ重要なものであっても、そこに全面的に依拠するのでは、それは盲信と変わらないものとなってしまう。「信」もまた人文学にとって根本的に重要なものには違いないが、しかし、それは盲信とはまったく異なる事態だと思う。

いわゆる「エビデンス主義」に対して、人文学を擁護する際に典型的な仕方は次のようなものだ。すなわち、人文学は、非合理な存在である人間とその営みを対象とするがゆえに、非合理性を孕まざるを得ないのだ、と。これで多くの人々を納得させることができるかはわからないのだけれど、ぼくは基本的に同意する。たとえば、非科学的とされ圧倒的に廃れつつある精神分析が、驚くほど明快に病理を説明することがあることを考えてみたとき、人間というのは不確かな存在であって、それを対象とするならば、それなりの――不確かな――方法が存在するのではないかと思うのは、そうおかしなことではないはずだ。

 しかしながら、問題となるのは「信」である。何に対する「信」か?言うまでもない。「人間は非合理な存在である」という前提に対する「信」だ。ディシプリンごとに前提は少々異なるし、「科学」と「人文学」を比べてみれば、学の体制としてどのような前提を信じているかは大きく異なるだろう。さきほど「盲信」と「信」は異なる、と言ったのはこうした事情のためだ。

「不確かさ」を核に置くということは、「不確かさ」を信じ続けるということでもある。それは倫理的に要請される事態だ。紛いなりにも人文学の片隅にいるのだから、僕もまたここに「信」を置くもののひとりだ。そもそもの根本動機である「他者を理解したい」にとっても、不確かさ、自らと異質なものを信じ続けることはきわめてクリティカルな基本的倫理だと思う。

 

しかしながら、この「信」を保ち続けるのはしんどいなと思うことが時折ある。

 

やや牽強付会の感を否めないが、ジャック・デリダの『雄羊』の話をしよう。この本は、死去したハンス=ゲオルグ・ガダマーを記念して行われたデリダの講演の記録であり、パウル・ツェランの詩「雄羊」、とりわけその最終行「世界は消え失せている、私はおまえを担わなければならない」という一節についての分析を軸に、死者ひいては他者に対しての倫理について語ったものだ。森村修による論文を参照しながら、すこし、この本に書かれていることについて触れていく。

親しい他者がこの世を去ったとき、人は喪に服す。何のためか?それは故人を悼むためであり、なおかつ、悲嘆のなかで自らが陥った例外状態から日常に復帰するためだ。「フロイトによれば、「喪の作業」とは、正常な日常生活に戻るために、自我が多大な労力と努力をはらった末に、日常性に復帰することによって抜け出すことのできる「苦役=作業 travail, Arbeit, work」にほかならない。しかしそれは、「生き延びる者」にとっては、「喪の作業」は多大な苦痛を伴う「苦役=作業」であるが、結局のところ、日常性に復帰するという「成功」で、「苦役=作業」は完了する」*1

もちろんこうしたフロイト的な「喪」を引き受けた上で、デリダの言う「喪」には、より強力で――なおかつ困難な――負荷が掛けられている。デリダに言わせれば、「喪」は他者の死によって始まるものではない。「喪」は、他者が生きて存在しているときに、出会ったその時から既に、始まっている。

だから私の言うメランコリックな確信は、相変わらず友人の生前から相変わらず友人たちの生前からすでに始まっている。中断から始まるばかりでなく、中断の言葉からも始まっている。(中略)このとき喪は、もはやただ待ってはいない。この最初の出会いからただちに中断は死を受け入れ、死の先回りをして、容赦のない前未来によってそれぞれを喪に服させる。私たち二人のどちらかが、ただ独りで残らなければならなくなるだろうということ、私たちは二人とも、前もってそのことを知っていた。*2

 フロイトデリダの差異はそればかりでない。両者では、「喪」のあり方そのものが根本的に異なるのだ。以下に引用するような事態にあって、デリダの「喪」は、他者に対する基本的倫理としての次元にまで拡張されている。

つまり、フロイトに対して、デリダは正常(normal)の喪が他者を「自己の内部に自己として保存 (=世話)する」ことが、すでに他者を忘却することをすら忘却することに繋がると述べている。デリダによれば、友を「二度殺す」ことをしないで、「生き延びる」ためには、フロイトの「同一化」を回避し、正常な日常性へと復帰する「喪の作業」を拒否することだ。その結果、デリダは、積極的に「病的な喪」としての「メランコリー」を引き受けるしかない。デリダが 、他者(ガダマー)に忠実であるためには、そして他者(ガダマー)の単独=特異な他性を尊重するためには、デリダは自らの内に他者(ガダマー)を担わなければならない 。それが、ガダマーに対するデリダの「倫理」である。
 デリダが語っている「倫理」とは、自分の内に取り込まれた他者が自我と「同一化」することによって他者の単独的=特異的な他性を喪失し、他者を「喰う」ことで「体内化」し、自我となる(=我有化される)ことを避けることだ。「正常な喪」では、私(自我)の内部で、他者が他者であること(=他者の他性)が忘れられるだけでなく、忘れたことすら忘れてしまうことが生じる。それこそが、まさに「正常の喪」であり、デリダはそれを「健忘症の良心」と呼ぶ。それに対してデリダ自身は、愛された「他者」(ガダマー)を忘却の淵に沈めないために、ガダマーの他性を喪失しないために、彼を自らの内部に保存しなければならない。そして、決して自らの自我に同一化させず、「体内化」もせず、「私」=自我の内部で喪失させないために、デリダは「メランコリー」に耐えなければならない(「メランコリーが必要なのだ」)。つまり、自我と他者とのあいだに「倫理」が成立するためには、他者が自分の内部に存在しなければならない 。自我と同一化した他者は、もはや他性をもった他者ではない。それゆえ、自我と同一化された他者(=自我)とのあいだには、もはや「倫理」は成立しない。*3

 幾分か込み入った論立てではあるけれど、ここで要請されているのは極めてシンプルなことだ。私は出会ったときから他者を他者そのままに担わなければならない。自我に記憶される他者を整理整頓して秩序のうちに取り込んでしまうのではなく、異質性、存在の謎、それらを引っくるめて、保持しなければならない。食物に移し替えて考えてみると次のような比喩が成立するだろう。すなわち、身体に侵入した(摂取した)異物を、消化してしまうことなく、排出することなしに、そのままの姿で胃の腑に留め置かねばならない。

フロイトにあってメランコリーという病的事態からの脱出のために必要とされた「喪の作業」は、デリダによって変形され、他者に対する倫理的要請そのものとして鋳直される。きわめてまっとうな要請であり、ある種の倫理学が行き着く極点がここには記されているだろう。しかし、それは、人を病のもとに留め置くように仕向けるものでもある。ここで人は他者に対して倫理的であるかぎり、メランコリーに苦しみ耐え続けなければならないのだ。

食べたものがいつまでも胃の中で消化されず残っていれば、それは立派な病気だ。滞留する異物は人の健康を害し、ときにその命を奪いもするだろう。倫理に誠実であり続けた先にあるのは、同様な帰結であるかもしれないと思うことがある。

 

そしてまた、長い長い迂回を経て、勉強や研究をしている中で出現する「不確かさ」についても、同じようなことを感じてしんどくなることがある。「不確かさ」について誠実であるかぎり、他者を、異質性を、得体のしれなさを、合理化してしまうことなく取り扱わなければならない。それはある意味で、異物を自我のうちに留め置き続けることである。さきほど書いた道筋を辿れば、それは病につながりかねない行為だ。

たぶんぼくは、信じ切ることができていないのだと思う。あるいは、倫理を遂行するにたる、不確かなものについて考え続けるための強靭さを持ち合わせていないのかもしれない。そんなことを思いながら、ときどくしんどくなったりしている。

 

雄羊 (ちくま学芸文庫)

*1:森村修「喪とメランコリー(1) デリダの<精神分析の哲学>(1)」, 法政大学国際文化学部『異文化 論文編』16巻, 2015:p.128

https://hosei.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=10763&file_id=22&file_no=1&nc_session=57u9p9cpjdhdgn50pucl440pc7%20target=

*2:ジャック・デリダ, 林好雄訳『雄羊』, 筑摩書房, 2006:p.20

*3:森村, 同:pp.130-131