屋上屋

屋上で小屋を建てている

日記 2022-06-16

アドルフ・アイヒマンが「凡庸な」という形容詞から想像されるような平均的人物ーーつまり平均的な程度に無能な人物ーーでは決してなく、むしろ彼はきわめて勤勉で優秀な働きをみせる労働者だった、ということが共通了解となってから既に久しい。アイヒマンは「凡庸な悪」というよりもむしろ「非凡な悪」であったのだと言われさえする。とはいえ、彼についてアーレントが述べた「凡庸な悪」「悪の凡庸さ」という言葉は失効してしまうのかというと、それは必ずしもそうではないだろう。そもそもアーレントが「凡庸」という言葉で表そうとしていたのは悪行の程度ではなかった。それは人が非常に容易に「悪」に陥ってしまうということの凡庸さであったのであり、アイヒマンの凡庸さはそのまま私の凡庸さでもあるのだった。

ところで、ここで言う「悪」とはなんだったかざっくり思い出すと、それは思考停止であり思慮の欠如のことであった。だから、「悪の凡庸さ」という言葉を安易な形で我々自身に差し向けてみれば、「いつも考えることが大事」という紋切型の教訓が生み出される。これだけ見るとかなり凡庸な結論になるけれど、その場面ごとの個別具体性に埋め込まれながら考えていくとき、その思考は必ずしも凡庸なものだとは言えないだろう。少なくともそうだと信じたいな、とは思う。

 

 

また別の話。「小さい秋みつけた」のようにして「小さい悪みつけた」となるような瞬間が折々にあり、そういうものを見つけると、世界への信頼が目減りしてぐったりしてしまう。

セブンイレブンのサービスの一つであるところのネットプリント、これはご存じのとおり事前に資料をアップロードしておいてそれをセブンの店舗で印刷することができるというサービスだが、資料をアップロードする際に印刷時の色指定をしていない場合、店舗で印刷しようとするときのデフォルトはカラー印刷となっている。それに気づくことなくプリントを始めてしまえば白黒印刷と比べると料金が2.5倍違うわけで、うっかりしている人間に対して優しくないというか、さもしい魂胆が感じられて evil だなあと思ってしまった。小さい悪をみつけて、少しうんざりしてしまう。奪い合うのではなく、納得して対価を支払うことによって成立する社会が好ましいな、と思う。