屋上屋

屋上で小屋を建てている

皮膚

手荒れがひどくなったりする。

昔からずっとそうで、治ったり荒れたりを繰り返している。本当は皮膚科に行くべきなのだが、億劫で、いつも市販薬を塗って、ひとまず皮膚が肉を覆っている状態になればケアすることも忘れてしまう。

利き手の方がひどくなりがちで、だから、手が荒れると色んなことが億劫になる。皿洗いがひとつの極致だ。

たかだか薄っぺらい皮が壊れてしまい、肉が露出してしまうだけだ。それでも痒かったり痛かったりかさぶたができたり、いろいろな反応を肉は世界に対してするわけで、人間というのは皮膚に包まれた肉のかたまりであるのだなと思う。

個体である限り皮膚は肉と世界の界面として要請される。肉はそれのみで世界に曝されたままあることはできない。血や他の体液で表面を濡らしたまま生きることは苦痛を伴う。薄い皮膚がこの体の個体性を保証している。

転んでできた擦り傷だって同じことだけれど、傷は肉の脆弱さをいとも簡単に暴露する。この私という個体の生存が、薄く弱い皮膚によって包まれることなしには存続しえないということ。まさしく薄皮一枚に担保された生。

その皮膚も壊れることがあるわけで、まるでいたちごっこのように傷ができてはかさぶたが覆う。生きていくことは、壊れながら恢復し続けることだ。

手の壊れた皮膚を見るたび、漫画版ナウシカに登場する皇弟ミラルパのことを思い出す。不老と長生のために人造の皮膚と肉体を用いていた先代皇帝が、その皮膚が破けていったがために血と肉を床に撒き散らして死んでいくシーン。ミラルパはこのシーンをトラウマとして抱え、老化に抗うために人造皮膚の使用を進言されたとて殊更に拒否する。

手の壊れた皮膚を見るたび、もしかしたらこのひび割れが、肉の露呈が、少しずつ広がっていって死ぬのかもしれないな、と思う。いつか、傷にかさぶたが追いつかなくなったときに。いつか、崩壊の速度が、治癒の速度を確実に上回ってしまったときに。

しかし/だから、それまでは生きていよう。壊れた手で皿を洗おう。荒れ果てた界面で世界に触れていよう。すべてが裂け、血みどろの肉が世界に撒き散らされるその時までは。

少なくともまだ、その時は訪れていない。

 

 

壊れながら立ち上がり続ける ―個の変容の哲学―