屋上屋

屋上で小屋を建てている

黒島追想

「黒島」と名のつく島は日本にいくつかある。今回書きたいのは、長崎県佐世保市に所属する黒島のことだ。

(ここです)

kuroshima_location

 現在の居住者は五百人ほど。それほど小さくはなく、しかし決して大きくもない。本土からはフェリーに乗って1時間足らずで着く。やはり遠いという程ではない。

 僕はこの島を数年前の夏に訪れた。さした理由があったわけではない。でもなんだか島に行きたかった。物理距離ではなく、精神的に遠くに行きたかった。それで九州への帰省ついでに行けそうなところを探し、この島のことを知ったのだった。一泊したけれど、それほど観光名所がたくさんあるわけでもないし、たぶん日帰りでも十分に回ることができるだろう。

 佐世保からローカル線にしばらく乗る。都内の有名私立男子中の登山部か地理部と思われる子どもたちが同じ車両に乗っていた。先に降りたのは彼らだ。どこに向かっただろうか。それからいくつかの駅の後、僕は相浦という駅で降りる。無人駅。海が見える。ホーム上の待合所にはいつのものともしれない落書きがたくさん書いてある。電話番号を書き込んだものもあって、今でも通じるだろうかと考える。電話をかけはしなかった。

ainoura_station

そこには漁港と工場プラントがあった。お昼ごはんを食べたような気もするし、コンビニで調達してフェリーに乗っているあいだに食べたような気もする。よく覚えていない。港は入り組んだ海岸線の内側に築いてあり、波も静か、海は穏やかにきらめいていた。

umi

待合所には僕と同じ便に乗るであろう人が数人いた。帰省らしい家族、中学生か高校生くらいの制服姿の女の子、腰の曲がった老女、商売に行くと思わしき二人組(軽トラのディーラーぽかった)など。勝手知ったる様子でそれぞれに暇を潰している。僕はなんとなくそわそわしている。いつもそうだ。旅人なんてかっこいいものではない、観光客という身分の落ち着かなさ。港を歩き回り、海を眺めた。住民でも参与者でもない者は傍観者となる。

フェリーについて特筆することはない。船は相浦の港を出て、途中高島という島に寄り、黒島へと向かう。制服姿の女の子は高島で降りていった。google mapを見てみると、高島には中学校以上の教育機関が存在しない。たぶん彼女は高島から本土の学校に通っているのだと思う。島というと遠くの印象をもってしまう。おおよそ平地で育ってきたゆえの先入観だ。しかし八王子から新宿に出るのだって一時間近くかかる。出た先が相浦か新宿か、というのは大きな違いではあるけれど、とはいえ航路もまた日常の足となりうるのだということ。たぶん、日常的に海を渡るような生が、この島国にも案外存在するのだろう。見知らぬ土地に出かけることとは、異なる生とすれ違いにいくということだ。それは国境を跨ぐかどうかに関わらない。

昼寝する間もなくフェリーは黒島に到着する。近づくにつれ、海上に隆起した森とでも言うべき、島の様子が明らかになる。この島の名の由来のひとつに、木々が鬱蒼と茂り海から見たときに島影が黒く見えるため、という説がある。確かに森は海の間際まで迫り、犇めいている。その中に細い道路が引きこまれている。

kuroshima_entering

森と海のわずかな隙間に黒島港はあり、下船した人々は思い思いの仕方で森のほうへと向かっていく。港には観光案内所のようなものがあって、そこで自転車をレンタルすることもできたのだけれど、僕は歩いていくことにした。島は全体として山のようになっており、中央部にかけて土地が高くなっている。中央部は開けており(かつて開墾したのだろう)、そこに学校や田などがあり、中心的な集落がある。港からそこまでは歩いて30分くらいだった。僕が泊まった民宿もその辺りにある。人が暮らしているのだということ。しばし少ない往来を傍観する。

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さて、黒島の名の謂れには別なものもある。曰く「クルス島」から転じて黒島。どういうことか。クルスとはすなわち十字架である。この島には古くよりキリスト教が根付いていた。伝来は戦国時代に遡るらしい。本土からの脱出者なども加えながら禁教の時代にも信徒は潜伏し、今なお島に暮らす人々の半数以上はキリスト教徒であるらしい。そんな島の象徴的な存在がある。「黒島教会」(写真右)だ。

catholic kuroshima church

予想以上にかなり立派で、しっかりとしたロマネスク教会だった。竣工は1902年。江戸時代が終わり、禁教が解かれた信徒たちと、フランスから渡来した神父によって築かれたものだ。2018年には「長崎と天草の潜伏キリシタン関連遺産」の一部として世界遺産にも登録されている。とはいえしゃっちょこばったものではない。めちゃめちゃ観光客が訪れるわけでもなく、現役で運用されている教会である。*1教会内部には信徒の子どもたちの当番表(礼拝のなんらかの部分を当番制にしているようだった)や、自治会のお知らせチラシ的なものが張ってあったりした。内装はおもしろい。天井は棕櫚の葉のようなものが葺いてあるように見えた*2(屋根ではなく天井も葺くと言っていいのだろうか)し、祭壇の床には伊万里焼のタイルが使われている(らしい、これはWikipediaを読んで知ったこと)。様式が比較的しっかりとある教会建築というものでも土地土地の条件によって少しずつ装いを変えるのが興味深い。きっとアジアへのキリスト教の伝播とそこで建築されていく教会たちのことなんかを調べると面白いんだろうな、とその時は思った。今ふたたび考えてみると、たとえ教会の震源地に近づいていこうとも、都市と田舎ではずいぶん条件が異なるわけで、アジアにまで広がらずとも様式の伝播と作り変えのダイナミズムは生まれているのだろう。こちらの方は建築史の研究がもっとたくさんあるのだろうと思う。まだ調べてはいない。

教会内部は興味深くまた美しい空間であったけれども、僕は一枚も写真を撮らなかった。いつもそうだ。教会の内部でカメラを構えるのは腰が引ける。それもたぶん、僕が傍観者だからだ。

港から中央部へとあがった道をそのまま進めば、島の反対側にくだっていく。のぼり道の先にはくだり道がある。そのようにして世界は辻褄を合わせている。進めば進むほど普段の人通りも少ないのか、道を覆う森はますます深くなる。

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ハイデガーの「杣径」という言葉を思い出したりする。しかしこの杣道の先にあるのは芸術作品の根源ではない。

seascape

海だ。大地ではなく海が明るみに開かれる。黒島は絶海の孤島ではない。向こうには本土が見える。本土は、つまり権力はこの場所からすぐ近くにある気もするし、なにか徹底的な途絶があるようにも思える。禁教期、隠れキリシタンが潜伏していたのは多くの場合島嶼・沿岸部であった。中心と周縁。追いやる者と追いやられる者がいる。森の果てた海辺、僕は立って、それを傍観している。

黒島には教会のほかお寺もあるけれど、島民の多くは今なおキリスト教を信仰しているそうだ。例えば僕がこの島に生まれたとしたら、キリスト教徒となっていただろうか。毎週教会に通い、礼拝当番を担当するような?黒島の信徒たちの実際の信仰生活のことはわからないけれど。よそへ出かけることとは、ありえたかもしれない無数の生とすれ違い、他でもなく今このようにある他でもない自分の生を返り見することでもある。それはすこし、ホームを通過していく回送電車を眺める人が、今どうしようもなくこの駅に釘付けされているのに似ている。

夜、「人んちの空き部屋」といった趣の宿泊先から出て見た空には、星がよく見えた。この島に信号はない。

woods

 

*1:2019年3月より改修工事が行われているようで、現在の状況は僕にはわからない。僕が訪れた当時の話だ。

*2:本当にそうだったか若干怪しい、木の板だったのかもしれない。